株式会社マルト長谷川工作所2025.06.16
世界に誇る、
made in SANJOの人と技。
創業から100年。新潟・三条の地で研ぎ澄まされてきた技術と誇りを胸に、世界に挑み続ける株式会社マルト長谷川工作所。四代目・長谷川社長が語るのは、ただのものづくりではなく、人を育て、地域をつなぎ、未来を切り拓くものづくりの哲学。創業者の思いを受け継ぎながら、時代の変化に挑み続けてきた歩みと、社員全員で築いた企業理念、100年後へ向けた新たな未来への決意。そして全ての源となっている、愛する地元三条への熱い思いが語られました。
長谷川 直哉(はせがわ なおや)1973年、新潟県三条市生まれ。幼少期より多様性に富む様々な人々と関わり、高校卒業後はイギリスに渡る。大学2~3年時に海外で起業し貿易業に携わる。帰国後、『株式会社マルト長谷川工作所』に入社し、製造現場・生産管理・輸出業務など幅広く経験。2011年、四代目社長に就任。企業理念の再構築や地域連携、海外展開を推進し、先代から引き継ぐ不屈の精神を胸に、会社の成長を日々牽引している。休日は自社代表ブランド「KEIBA」に因んで、乗馬をたしなむ。
三条の地で築き上げた、100年続く不屈の精神。
2024年に100周年を迎えられました。これまでの沿革・歴史を教えていただけますか。
当社マルト長谷川工作所は、大正13年に創業しました。
創業者である曽祖父が東京で修業をしていた最中、大正12年に関東大震災が起こり、故郷の新潟に戻ってきました。この先を生きていくために、そして技術を教えてくださった東京の師匠や一緒に働いた仲間への思いを馳せ、「物を作ることが、東京の復興の手助けになるんじゃないか」と、手に付けた職を頼りに創業したそうです。
創業当時は、何を作られていたのでしょう?
とにかく、作れそうな物は何でも作っていたそうです。金属製の弁当箱だったり、お玉だったり。おそらくそれを東京に送っていたのでしょう。その中で、最初に作った物が「締(しめ)ハタ」という道具でした。これは家具や建具作りの職人さんが、木を固定する際に使う道具です。当初は試行錯誤の連続で、何を作ってもうまくいかなかったことが多かったそうですが、曽祖父は非常に器用で発明家のような性格だったので、何か作れそうなものがあれば、とにかくチャレンジしてみるという創意工夫の精神を持っていたようです。その精神は現在も「マルト長谷川」の基盤となっている部分ですね。
その後どういった経緯で製品開発に繋がっていったのですか?
日々、試行錯誤の連続の中で大きな転機となったのが、三条地域の仲間が「大阪の先進地視察に行こう」と誘ってくれたことでした。大阪では既にボックスジョイントの西洋型ペンチの製造が行われていて、そこで初めてスプリングハンマーという大掛かりな動力を使った鍛造機を見たそうです。それはまだ新潟の地には導入されていない技術でした。曽祖父は一晩悩んで、翌朝には機械を導入することに決めたそうです。それが三条地域、新潟県内でも第1号の鍛造機となりました。そして、新潟県で最初のペンチの製造に行き着いたそうです。

そこから製品を大量に生産するという流れが始まったのですね。
それが昭和6年~7年の事だったそうです。元々あった技術として「手打ち刃物」は手で鍛造するわけですから、それが動力に変わったということは画期的でとても大きな変化でした。
ブランドマークの「馬」が印象的ですが、何か馬に関する事業をされて
いたのでしょうか?
よく聞かれるのですが、これは先代が、馬が好きだったというだけなんです(笑)。創業した場所が丁度、五十嵐川の川っぺりで。当時、まだ珍しい地方競馬である三条競馬場がそこでスタートしました。当時は馬車馬を飼っていて、結局それが高じて競走馬も飼うようになっていたそうです。それがご縁で、『KEIBA』というブランドを当時から商標にして、全ての製品に馬のマークが入っているという、珍しいブランドストーリーがあります。
時代に応え、信念に従う。
その後、マルト長谷川のブランドはどのように成長していったのでしょう。
新潟で最初のペンチ製造を始めて、「これから」というタイミングに起きたのが第二次世界大戦でした。これによって起きた材料不足、物資難で当時は出鼻をくじかれた形になってしまいました。その後、第二次大戦が終わって間もなく、無事に出兵から戻った二代目が後を継いで、戦後の復興需要もあり、そこから販売戦略にとにかく力を入れたようです。
台湾や近隣の国へ、60年前から輸出を始めたっていうのが二代目の時でした。
三条の町工場が、戦後の復興の高度成長期に一気に10倍ぐらいの規模に拡大した、大きなドラスティックなチェンジがあったのがその時代ですね。
その後、様々な歴史の流れに適応していくうちに、20年ほどの周期で主力製品が見事に変わっていきました。今、結果として弊社の商品の中で一番競争力があるのが、樹脂の成型加工で樹脂のバリを切る薄い刃物、薄いニッパーです。あと、携帯電話、スマートフォン、パソコン、テレビ等の家電製品の生産ラインで使われている、とても精密なニッパーです。おかげさまで今では、輸出している世界30カ国で1番評判がいいものになったという歴史があります。
ニッパーを作り始めた昭和初期では、8~9アイテムから始まったのですが、今は300種類以上、品番1,500品番くらいにまで拡大しています。
原材料から吟味され、「マルトロイ」という原材料を仕入れているそうですが、それについて教えてください。
40年くらい前、アメリカのホームセンター事業が凄く伸びていたのですが、プラザ合意で円高が進み、日本製品の価格競争力が落ちてしまいました。そこで次はドイツ市場に挑戦していくことにしました。当時、ドイツのバイヤーから「クロムモリブデン」や「クロムバナジウム」が入った、高級炭素鋼を使用していないと高級工具とは認められないと言われてしまい、また、品質面においても、ドイツ工業規格に合致しないなどの点があって、何度サンプルを送ってもなかなかOKがでませんでした。一流の品質になったら取り扱う、そう言われて2、3年もの間キャッチボールしたそうです。要求されるスペックのものを作ることが非常に難しかったのですが、その中でも引き下がらず、国内のトップブランドの材料メーカーさんに交渉して、当社専用の配合で、ドイツのバイヤーが納得する材質を作ってもらったそうです。それが『マルトロイ』です。当社オリジナルの配合なので、『マルトロイ』という商標を付けています。今では『マルトロイⅠ』『マルトロイⅡ』と2タイプあります。これを作り上げる努力があったからこそドイツでの評価を得られ、今も使ってもらえているんです。ちなみに来年2026年は、当社ドイツ進出50周年という大きな節目にもなります。
製品をつくるだけではなく、その材料からもつくるというこだわりなんですね。
加えて当社の大きな特徴が自社製の熱処理炉です。一般的に熱処理工程は、専門業者に外注するのが多いようですが、当社ではそれを社内で行っています。もちろん、設備の導入や技術の確立には大変な苦労がありましたが、自社で熱処理まで取り組むことで、素材が本来持っているポテンシャルを最大限に引き出すことができるんです。
ということは、ワンストップで製造できるというのが強みでもあるのでしょうか。
当社が一貫生産にこだわるのは、やはり創業からのストーリーがあるからです。
創業者が新潟県に初めて鍛造機を持ってきて、新潟県で初めて作業工具の製造を始めて、当たり前ですが、当時から一貫生産だったわけですよ。夫婦二人三脚で、よく作ったと思います。どんなに時代が経とうとも、どんなに規模が大きくなろうとも、一貫生産するという試みはずっと外さず、未だにこだわり続けているというのが当社の強みであり、特徴でもありますね。

輝く社員が、輝く製品をつくる。
会社全体が同じ方向へ向かう指標でもある、企業理念を教えてください。
私が4代目として社長に就任するまで掲げていた企業理念は、先代の社長が考えたものでした。でも、私が就任するタイミングで、「一度、企業理念を見直してみよう」という話になったんです。いくら名文であっても、リアリティがなければそれはただの絵に描いた餅になってしまいます。
実はその頃、リーマンショックの影響で会社としても非常に苦しい時期でした。でも私は「こういう時だからこそ、たとえ仕事が少なくても会社に来てください」と社員に伝えました。そして、集まったみんなで知恵を出し合って改善に取り組んだり、学びあったりする中で、自然と企業理念も自分たちで作ってみよう、という流れになりました。
「みんなの会社だから、企業の理念もみんなで作ろう。そして、それをみんなで共有しよう」と、そんな思いで始めた取り組みでした。1年半かけて、全社員で十数回も話し合いを重ねて、ようやく今の企業理念ができあがったんです。そこには、私たちの想いがしっかりと込められています。
企業理念を全社員で作ったとは、驚きました。
「みんなの理念でみんなの会社」っていうのを、イコールにしたかったんです。1年半かけて、何度も話し合いを重ねて作り上げた理念は、派手な言葉ではありません。むしろ、ずっと心の中にあったような、当たり前で素朴な言葉たちなんです。でも、それこそが“マルトらしさ”だと思っています。まず掲げる理念が「お客様満足」「お客様第一」ではなくて、「まずは社員が輝くことで縁のある皆さんがハッピーになる」っていうのが当社の理念なんですよね。それが結果的に良いものづくりに繋がっていくと思っています。
「人づくり」と「ものづくり」は、両軸で回っているものだと思います。
ものづくりというのは、『それを作る人の質』に比例すると思っています。
つまり、製品の品質は、そのまま『作り手の品質』に繋がっています。だから、“いいもの”を作るには、まず“いい人”であることが大事なのです。
逆に、「いいものを作っていると、人も自然と良くなっていく」。そうした良い循環が生まれることは、私の中で揺るがない信念です。
例えば、姿勢ひとつからもそれは表れます。お客様が、当社の入社2年目の若い社員を見て、ベテランだと思われることがあります。そう見えた理由というのは、その人の立ち居振る舞いに誠実さがにじみ出ているからなんです。雑な姿勢で、良いものは生まれません。
作業中の緊張感や誠実さは周囲にも伝わります。そして、かっこいい職人が一人いると、周囲も意識を引き上げられるんですよね。スポーツの世界でもそれが言えると思います。 だから私は、「いいものを作ると、人が良くなる。真面目になる。そして、真面目な人がいいものを作る」というのは、『完全にイコールの関係』だと思っています。
工場で社員さんとすれ違いましたが、やはり姿勢の良さに目が留まりました。
ありがとうございます。
また、海外のバイヤーさんから「どうやって品質管理を“させている”んですか?」とよく聞かれます。その“させる”という発想自体が、日本と海外の大きな違いだと思うんです。
海外の品質管理は専門の検査員が規格外品を見つけ出す、いわば取り締まりに近いことをイメージしますが、私たちは品質規格の基準を共有し、個々がそれを理解することで、自発的にそのレベルを守ります。それは、日本人がもつ独特の感性の表れです。
例えば、旅館で障子が少し空いていたり、掛け軸が曲がっていたりすると、直したくなりませんか?あの心境は縦のラインを揃える美に親しんだ日本人ならではなんです。私たちの商品も、刃と刃がぴたりと合う“合わせの美”が命です。だから、自発的に自然と美しい基準を目指す。これは、日本人特有の感性であり、これこそが日本のものづくりの強みだと考えています。
海外の方からの言葉で、印象に残っているものはありますか?
海外のお客様が、職人の技を見たときの「彼はマジシャンだ」という言葉ですね。凄くユーモラスな褒め言葉だと思います。マジックには、「魅力」や「魔力」という意味があるので、最大限の褒め言葉ですよね。海外の方が驚いてしまうような高い精度の仕事が、工場では日常的に行われているんです。
だからこそ、私たちは品質を隠さず、工場を“丸裸”にしてお見せしています。「見られている」という緊張感が、現場をさらに美しく、整ったものにしていく。良い循環になっています。そして、こうした動きは今では燕三条地域全体にも広がってきています。当社だけでも年間3,000人ほど来場されていて、これからも広がっていくと思います。

「LOVE SANJO」で、「大好き新潟」。
燕三条地域全体で観光される方が増え、良い循環が広がっていますね。
「燕三条が国際産業観光都市になる」のが、私の大きな夢です。
特に金属加工業に関しては、世界に誇れるポテンシャルがこの地域には詰まっていると思っています。これだけの技術力や職人の知恵、そして世界的メーカーが、地方の小さな町に密集している場所は、そう多くはありません。だからこそ、もっと多くの人にこの地域の魅力や価値を知っていただきたい一心で、活動を進めています。
2019年、ショールーム「マルトパドック」がオープンしました。
工場に併設されている「マルトパドック」は、ショップとして商品を売るだけの場ではなく、私たちが目指しているのは “体験の場”なんです。
当社は高速道路のインターチェンジや幹線道路にも近く、アクセスが非常に良い場所にあります。さらに、周辺には素晴らしい技術を持った企業がたくさんあります。そういった環境を活かし、マルトパドックが地域全体の魅力を伝える拠点になれたらいいなと思っているんです。ちょっと大げさに言うと「道の駅」のような役割を果たせたらいいと思っています。

自社工場製品のPRだけではなく、この地域全体のPRも目的ということでしょうか。
そうですね。私がメッセージとして一番に伝えたいことは、「LOVE SANJO」で「大好き新潟」なんですよ。「LOVE SANJO」で「大好き新潟」じゃなかったら、やはりここでずっと商売できないと思いますし、成した事を誇りに持てないと思うんですよね。
地域を愛して、会社を愛し。その気持ちが無かったら、その地域もその会社もきっと発展できないと思っています。
長谷川社長は、生まれも育ちも三条と伺いました。子供の頃、先代の働く姿を身近に見られていたと思いますが、当時はどのように感じられていましたか?
私は一人っ子だったので、小さい頃は大人と過ごすことが多く、日曜になると「会社に行きたい!」と言っていました。(笑)。昔は日曜日でも宿直当番の社員がいて、社内に野球部やバレー部があって、誰かしら会社にいたんです。社員の皆さんと触れ合うのが、とても楽しかった記憶があります。
お祖父様やお父様が働く姿を見て「いずれ自分も継ぐのかな」と考えていましたか?
子供の頃から「いずれ家業を継ぐんだろうな」と意識していた気がします。でも、ある時ふと「遠くへ行きたい」と、反動のような気持ちが芽生えたんです。うちは私が幼い頃から輸出が多く、海外のバイヤーが頻繁に訪れていたので、自然と外国の文化に触れて育ちました。そういった環境もあって、高校を卒業してイギリスに行ったときも特別な抵抗はなく、むしろその環境が楽しかったんです。
その後、社会人になられた時、最初にお勤めになった業種を教えてください。
大学2〜3年目の頃、海外で起業し貿易の仕事を始めました。おそらく、どこかにまだ「帰りたくない」という気持ちが少なからずあって、自分の力も試してみたかったんだと思います。ある時「この先本格的に貿易の仕事を続けるか、それともここでやめるか」というターニングポイントがあって、その時、何事も「逃げて成功することはないな」と思いました。少なからず家業を継ぐことの反動のような気持ちで始めた貿易の仕事でしたから。「何かから逃げるために選んだことでは、本当の成果を出すことは出来ないな」って。ただ、私の中には遠くに行きたいという気持ちも持ち合わせていましたから、それで最後はちょっと生意気に、「よし、じゃあちょっと田舎に帰ってやるか」くらいのそんな気持ちで帰国しましたね。
その後、自社で経験を積み、2011年に4代目の社長に就任されました。
不思議なことに当社の代替わりは、いつも社会や会社が最も厳しい時期に決まって行われてきたんです。初代からお話すると、初代は戦時中の物資不足の中で事業を続けながらも、62歳という若さで他界してしまいました。どん底の時期に、2代目である祖父にバトンが渡されました。
そして平成に入り、バブル崩壊と円高不況が会社を襲います。そんな中で2代目が病に倒れ、父へとバトンが渡されました。その頃は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など、社会全体が混乱していた時代でもありました。父はトヨタ生産方式やMPS(基準日程生産計画)を取り入れ、会社を立て直したんですが、次に襲ってきたのがリーマンショックでした。その後に起きたのが東日本大震災。再び大きな困難の最中、私が4代目社長としてバトンが渡されました。
こうして振り返ると、戦争、経済危機、自然災害といった様々な困難を乗り越えてきたからこそ、今の私たちがある。三条という土地も、まさに「不屈の地域」だと実感しています。

様々な困難の中で代替わりされてきたのですね。就任後には新たな改革をされましたか?
この地域には、長く続く企業が多く、経営者としても人生の先輩としても頼れる方がたくさんいます。困ったときに何でも相談できる、そんな心強い環境です。
私が社長に就任した際、尊敬する先輩経営者から「社長が変わると、すぐに “新社長は何を変えるんだ?”と社内外から凄い数の問いかけがくる。でも、何十年と続けてきた会社を“継続” もできない人が、“変化” などできない。だから、3年間は嫌でも変えるな」と助言をもらいました。
私もその言葉を胸に、「3年間、何も変えない」という努力を続けました。すると、次第に“変えるべきこと”と“守るべきこと”が自分の中で見えてきたんです。そのとき、心に深く響いたのが「不易流行(ふえきりゅうこう)」という言葉でした。変えてはならない本質と、時代に合わせて変えていくべきことを、どう見極めていくか。その大切さを、あの3年間で学びましたね。
30代で社長というポジションについた時、プレッシャーはありませんでしたか?
それに関しても、この三条地域の良い所で、先代が60代で元気なうちに次の世代に社長を譲るんです。30代社長、60代会長という形はこの地域では珍しくなくて、むしろ“地域のトレンド”ですね。周囲にも同じように継いでいる仲間が多いので、背中を押される感じです。
昨年100周年を迎えられました。今後の展望をお願いします。
当社はこの100年の間に、5回ほど大きな節目を迎えてきました。一般に「企業は30年ごとに転機が来る」と言われますが、当社は不思議と20年ごとにトレンドが変わってきたのです。今はまさに「次の100年に向けた最初のトレンド」を見極めるタイミングです。社内にチームを立ち上げて、新たな方向性をじっくり考えているところです。
次の100年に向けての具体的な取り組みはございますか?
5月に、全社員とOBの皆さん、そして長年お世話になってきた取引先の方々をお招きして、100周年記念の座談会を開催します。
この会では、改めてみんなで「この会社はどこから生まれて、どう歩んできて、今どこに立っていて、これからどこへ歩むべきか」を共有します。昔を知るOBの方々から当時の話を聞けるのも、次の世代にとって大きな財産になるはずです。
こうした機会を通じて、改めて当社を見つめ直し、次の100年へと繋いでいきたいと思っています。
最後に、次世代を担う若い人たちへのメッセージやアドバイスをお願いします。
自分を振り返ると、若い頃に多くの場所へ出向き、多様な人と出会い、さまざまな文化に触れてきた経験が、今の自分をつくっていると感じます。
ある先輩が、「発想の幅は、自身の今までの移動距離に比例する」と言っていて、私はそれを本当に名言だと思っています。どれだけ靴底をすり減らしてきたかが、その人の視野や発想の幅を広げると思っています。
今は、コロナや為替の影響もあり、動きにくい世の中ですし、反面、何でもオンラインで見られる時代ですが、実際に“足を運んで、会って、空気を吸う”という体験に勝るものはないと思います。
燕三条地域には技術もノウハウも経験もありますが「ダイバーシティ(多様性)」が足りないと思っています。もっと多様な意見や価値観が行き交う地域になっていってほしいと願っています。ここは強く若いみなさんにお願いしたいですね。
それからもう一つ、大切にしている言葉が「孟母断機(もうぼだんき)」という故事の言葉です。孟子が勉強をやめて帰ってきたとき、それを知った母親が織りかけていた布を断ち切って、「途中でやめたらこれと同じだ」と諭したという話です。
今の時代は、環境の変化も早く、すぐに別の道に移ることができる時代ですが、ひとつのことをやり抜くことの価値が、もっと評価されていいと思うんです。それを実践できているのが、この燕三条という地域なんじゃないかと私は感じています。
若い皆さんにも、そんな「続けることのかっこよさ」を、ぜひ知ってほしいですね。

確かに、燕三条という地域には、ひとつのことを続ける精神が育まれていますね。
「途中でやめよう」と簡単に言うことは、この地域の価値を否定することだと思います。実は、世界の100年企業の半数以上が日本にあって、100年企業の出現率が多い地域は、順に京都、山形、そして新潟。この地域は日本の中でも特に長寿企業が多い場所なんです。それは、みんなが「ひとつのことをやめずに、チャレンジし続けてきた」っていう証拠なんですよね。これからの若い世代にも「孟母断機」の精神が受け継がれていってほしいと願っています。
インタビュー:2025年4月
Information
株式会社マルト長谷川工作所1924年創業。新潟県三条市に本社を構え、精密ニッパーやペンチなどの高品質な工具を製造。原材料の選定から熱処理、仕上げまでを一貫して自社で行うことで、国内外から高い評価を得ている。近年では体験型ショールーム「マルトパドック」を通じて、ものづくりの魅力を広く発信している。
〒955-0831 新潟県三条市土場16-1
TEL 0256-33-3010(本社工場)/0256-46-0282(マルトパドック)
URL:https://www.keiba-tool.com/