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column 36

株式会社 Ahead of the curve2025.04.15

日本から世界へ。
新潟の挑戦がつなぐ未来。

しんしんと雪が降り積もる、木々に囲まれた古民家。その静けさの中で、インタビューは始まった。
「ビジネスの力で日本、そして新潟を元気にしたい」そう語る熊谷社長の熱意は、外の雪さえ溶かしてしまいそうなほどだ。自身の行動を「破天荒」と表しながらも、根底にあるのは 「日本から世界へ」という揺るぎない信念。未知の世界に飛び込み、新たな価値の創造に楽しさを見出す柔軟さが、彼の挑戦を支えている。
世界へ飛び出し、数々のビジネスを経験してきた熊谷社長から見た日本には、どんな可能性が広がっているのか。これからの日本、そして新潟の未来について、話していただいた。

熊谷 幹樹(くまがい もとき)1978年、新潟県新発田市(旧川東村)出身。2001年さわかみ投信株式会社に入社。同社に在籍しながら、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールにてMBAを取得、「GUCCI JAPAN」への参画、「株式会社CRAZY」で事業プロデュースなど、業種を越えて精力的に活動。日本の文化や伝統を世界に繋ぐ企業として、2014年に香港で「株式会社Ahead of the curve」を創業。近年は、「新潟から世界へ」をコンセプトに「Niigata Re-Find」をスタート。その第一弾であるサウナ施設の「sui」が2024年11月、生まれ故郷である新発田にオープンした。

バレルサウナ「sui」OPEN

昨年オープンされた、バレルサウナ「sui」について教えてください。

「sui」は、2024年11月16日に新発田市にオープンした、完全予約制のサウナ施設です。新潟の「水」「雪」「木」を活かし、自然と一体化したリラクゼーションを楽しんでいただけます。
オープンから大変盛り上がった、想像以上のスタートでした。多くの方に来ていただき、口コミでも大変好評で、感謝でいっぱいです。皆さん自撮りなどの写真をSNSに投稿されたりするので、そこから拡散している部分もあると思います。
ありがたいことに「古民家、井戸水、木材、サウナストーンを活用した地産地消型サウナ」として大変注目していただいて、山形県とか福島県、東京からもお客さんが来ているんですよ。 ただ、最初は盛り上がったのに続かなかった、とならないように、ここから本当に色々な仕掛けや手立てを打っていきたいと思っています。

開放的なウッドデッキで、四季のうつろいを楽しめる「sui」
盛況なオープンを経て、今後はどのように盛り上げていかれる予定ですか?

サウナが流行ってしばらく経ちますが、ブームはいずれ消えてしまいますよね。だから私は、「サウナを文化にしたい」っていう思いがあります。
例えば皆さん、お風呂に入ってシャワーを浴びますよね。今や当たり前のことですが、これは割と近代に定着した文化なんですよ。昔はしていなかった事も、続ける事で文化に、つまり「日常」になったんです。日常とは、「何かイベントがあるから行く」というよりは、「何もないけど行く」みたいな状態です。サウナが習慣となれば、それこそ「なくてはならない、欠かせないもの」になりますから。日常的に、誰もが訪れるような場所にしたいです。
それに、新潟って冬は寒いし雪も降るので、家に引きこもりがちですよね。でもサウナだったら、中で暖まりながらコミュニケーションすることもできます。だから、“人が集う場所を作る”という意味もあると思っているので、これからはどんどん、沢山の方に利用していただきたいです。

ここまでの成功は、当初の計画通りだったのでしょうか?

結果を見ればそう思われるかもしれませんが、実は一進一退の紆余曲折を経ていまして、ここまで来るのに3年掛かりました。

なぜそこまで時間が掛かったのですか?

何より難しかったのは、土地を見つけることです。
この辺り一帯、雑木林とか田んぼとか、いっぱいありますけど、当然全てに所有者がいます。譲渡してもらうにも、土地の使い方やビジネスの説明からのスタートなので、こういった地方で目新しい事を始めるのって、実はものすごくハードルが高いんですよ。私も同様に、「サウナやろう、技術もある、やる気もある…でも場所がない」という状況でした。

土地探しを始めて2年が経った頃です、私の実家はここから少し山手の方にある「本間新田」というところなんですが、その近くに800坪はある、絶好の空き地があるのを思い出しました。その土地の所有者の方からビジネスの趣旨にご理解を頂いて、「使って良いよ」と承諾を得ることができたんです。そこから「サウナ村をやろう!」って、トントン拍子で計画が進みました。 ところが、さすが田舎というべきか…その土地には排水管が通っていなかったんです。サウナって水風呂を使うんですけど、このままだと、使った水はそのまま下流の田んぼなどに流れることになります。それが問題視されてしまいました。

地方ならではの思わぬ落とし穴ですね。

当然、行政や市町村の合意を得た上での土地探しでした。ですが、「住民の方が少しでも不安を抱いているなら許可できない」ということで、結局白紙に戻ってしまいました。
こちらとしては新しいビジネスで雇用を創造して、観光で経済を循環させて、この場所を活気付けたい、という思いがあるのに、伝わらなかったのが非常に残念でした。もう諦めようかとも思ったんですけど、「いや、もう1回やろう」と挑戦することを選んで、またゼロから土地探しを始めました。

それで、現在のこの土地に出会うんですね。

巡り巡って、この場所にたどり着きました。ここは川東村を長く治めた名家、本間家の土地で、11代目本間百在門さんのご自宅だった場所です。住民の方達は本間家を慕って、今でも「本間さま」と呼んでいます。
私は土地探しの最中、この土地が空いていることにハッと気が付いたんですが、その時既に、20年近く空き家になっていました。住民の方達にとって敬愛する本間さまの土地ですから、いわゆる聖地のようになっていたんです。私は土地の所有者を探してコンタクトを取り、事業の説明をさせていただきました。ありがたいことに承諾してくださり、遂に土地の取得が現実的になったんです。

そうはいっても、「本間さまの土地でビジネスをするなんて」と、住民の方達から反感を買うのは目に見えていたので、2023年の10、11月ぐらいでしょうか、町民・村民を対象にした説明会をさせていただきました。そこでは、「大事な場所だからこそ、誰かが未来に繋がなければ、本当に朽ちてしまう。そうならないために、人が集まって消費や活気を生み出すビジネスに挑ませてください」と誠実にお伝えしました。そうやって、事業を進める環境を一つずつ整えていきました。

新潟の魅力を世界へ―「Niigata Re-Find」

熊谷社長が、新潟でサウナ事業を始めたのはなぜですか?

私の信念の一つは、「日本から世界へ」。そこからもう一歩踏み込んだ形で、「新潟から世界へ」をコンセプトとした「Niigata Re-Find(ニイガタ リファインド)」というプロジェクトを行っています。新潟の食・文化・技術などの素晴らしさを再発見し、その魅力を伝えていくという活動です。実は、今回オープンした「sui」は、そのプロジェクトの第一弾なんです。
新潟を選んだ最大のポイントは、素晴らしいものがたくさんあるという点です。新潟は米、水、お酒、雪、天然資源もあり、食も美味しい。文化的なものや歴史的な背景といった、観光資源のポテンシャルもすごく高い。それなのに新潟のアピールが弱く感じるのって、それぞれが独立していて「点と点が結びついてない」からだと思うんです。
新潟は日本海側最大の都市を持っているんですから、世界から人を呼び込むぐらいの戦略があっていいと思うんですよ。だから私は、その素晴らしいポテンシャルの数々を繋げて経済を循環させ、新潟を元気にするというビジョンを描いています。

「sui」に続く、Niigata Re-Findの第二弾はもうお考えですか?

2025年の夏、1日1組の顧客を限定とした宿泊施設、オーベルジュ「Né」を開業予定です。こちらは高価格帯の宿泊型レストランにする予定で、外国の方に日本の田園風景や地元の食を楽しんでもらいたいので、インバウンドを念頭に考えています。

やはり、新潟ならではの味をその土地で楽しんでもらうのが一番ですよね。

まさにその通りで、東京でも新潟産のお米を食べられますけど、地元の水を使って炊いた新潟のお米は、美味しさが全然違う。やっぱり地元のものを地元で食べたら美味しいんですよ。
だから、オーベルジュ「Né」では、本当に新潟のものだけを使っていこうと思っています。例えば出汁をとる昆布は、北海道産が有名ですが、敢えて新潟産のものを使うんです。「それで大丈夫なのか?」って思われるかもしれませんが、昔は物流なんてありませんでしたから。食文化は、その土地の恵みを活かしながら築き上げられてきたんです。
全ての食材を100パーセント地産地消なんて試みは、恐らくどこのレストランでも、ほぼないと思います。だから、宿泊客の皆さんは、現代から原始にタイムスリップするという、ここでしかできない体験をしていただけるんです。私はそれが面白いと思うんですよね。

その構想を実現していくため、同じ志を持つ仲間達とともに事業を進めていると思います。皆さんとはどういった繋がりで集まったのでしょう?

これはもう、本当にご縁ですね。
現在賛同してくれている仲間は、知り合いの農家さんや漁師さん。200年、300年の歴史がある瓦屋さんだとか、畳屋さんだとか。それ以外の若い方やアーティストとは、人の紹介で繋がりました。「点と点を結ぶ」っていっても、ビジネスと同様、人と人だってそんな簡単には繋がりません。流れの中で、「これだったらこの人に任せたいよね」っていう形で、ふわーってアメーバーのように広がっていく感覚です。

点と点を結んだ後、その繋がりを生かすためにどのように展開しようとか、お考えはありますか?

私は、点と点が繋がっていくことって、「お互いをサポートし合う」という一つの現象だと思っているんです。
例えば、仲間の瓦屋さんが作った瓦を、ある施設で使ったとしますよね。そこに世界の富裕層がやってきて、その瓦や瓦の文化に触れる。この出会いをきっかけに、世界と繋がるチャンスが生まれるかもしれないじゃないですか。そういった機会を作っていくのも、Niigata Re-Findの役割の一つかなと思うんです。

世界に向けて日本の価値を発信する際、どのような方法やアプローチが効果的だと思いますか?

日本がこれから長期的に何で成長していくのかを考えた時、「精神的なサービス」があると思います。やはり日本人の精神性から生まれる「おもてなし」って、世界に対して誇るべき、そして大きな強みだと私は考えていますので、それを世界に広げていきたいんですよね。だってこんな素晴らしいサービスが提供できる国、世界中のどこに行ったってありません。
そのためには、いかに世界の人達に日本のサービスを体験してもらうかが、とても重要です。やっぱり日本を元気にしたいんですよね。こんなに素晴らしい国なんですから。

挑戦の果てに、辿り着いた故郷

熊谷社長の生い立ちや、お仕事の経歴をお伺いします。

私の生まれは、新発田市の旧川東村です。その村の中でも、一番小さい集落で育ちました。ここは猿がしょっちゅう出るくらい本当に田舎で、私は小学3年生の時、熊に追われた経験もあります(笑)。こんな田舎で育つと、やっぱり都会への憧れ、その先にある世界への憧れがものすごく強くなるんだと思います。18歳までこの地で過ごして、東京の大学に進学した後、オーストラリアの学校に編入したりもしました。 あと、私の父親も祖父母も起業家なんです。なので、無意識的に“知らない世界へ飛び込む”というDNAを受け継いでいるのかもしれません。そういう家庭環境もあってか、大学卒業後は、創業して一年ほどの「さわかみ投信株式会社」に入社しました。

「さわかみ投信株式会社」を選んだのは、どういったお考えからですか。

実は私、投資とか経済学とか、全く学んだことがありませんでした。ですが、さわかみ投信の創業者である澤上篤人さんの著書を読んだ時、「これからの日本には本格的な投資信託が必要になってくるだろう」っていう内容に、ものすごく感動したんです。直接、澤上さん宛に手紙を書いたところ面接して頂いて、入社が決まったという経緯です。
だから、ちゃんと計画して入ったっていう綺麗なストーリーではないです。どちらかというと、破天荒に飛びこんだって感じですね。

そこでは、どういったお仕事をされたのでしょうか。

投資信託は、投資家の方からお金を集めて、世の中の企業に投資していくという事業です。私が入社した時、さわかみ投信は企業としてはまだまだベンチャーで、いわゆるスタートアップの時期でした。事業が軌道に乗るまでの、非常にやりがいのある期間を経験させてもらいましたね。それからはアナリストとしての業務です。
その後、幼少から抱いていた、「世界に挑戦したい」という思いを実現させたくて、アメリカのMBAに挑戦することにしました。さわかみ投信に在籍したままなんですけど、アメリカのペンシルベニアにある「ウォートン・スクール」に合格したのが2007年。ところが、アメリカにいる時にリーマンショックが訪れ、非常に大変な状況に直面することになりました。

MBAでの学びによって、ご自身に変化はありましたか?

日本以外の場所でビジネスを体感したことで、「グローバルビジネスを経験したい」という思いがますます強くなりました。その後、ありがたいことにご縁があって、世界的なハイブランドの経営戦略に関わらせていただきました。いわゆるラグジュアリービジネスという華やかな産業なんですが、外からは見えないシビアな世界が裏にはありまして、そこで戦略を立てていくという仕事です。

その後、香港で起業されたそうですが、どのような経緯があったのでしょう。

世界トップクラスのMBAで学び、世界的なラグジュアリービジネスを経験した後、「自分はこれから何をして生きるのか?」って、改めて自分の心に問いかけたんです。そこで浮かんできたのは、新潟とか、故郷のことでした。そこから、新潟のために何かできることはないかって考え始めたんですよね。
私は18歳で上京して以来、新潟を離れていますので、実は新潟のことをよく知りません。だから最初は、「新潟で何ができるんだ?」という所からのスタートでした。調べていく中で着目したのが、「新潟は日本酒が有名なのに、産業としてすごく停滞・衰退している」という点。そもそも日本の人口が減少傾向にある以上、国内の需要を増やすのは難しい。だったら、世界に需要を生み出せばいい、と考えたんです。
酒蔵が潰れれば、日本酒も文化も途絶えてしまうけど、残すことができれば維持できる。だから、「世界と日本酒を繋ぐことは、単なるビジネスの話ではなく、文化を維持する活動である」っていう一つのストーリーが、自分の中で成立したんですよね。

まず、世界に日本酒の消費を起こしていく為に「貿易」を考え、2014年「時代の先へ」という意味を持つ「Ahead of the curve(アヘッド・オブ・ザ・カーブ)」を起業しました。そして日本酒のサンプルを、スペイン・台湾・ロンドン・サンフランシスコへ送ることから始めたんですが、全くうまくいきませんでした。
日本酒って、温度変化や紫外線を嫌う繊細なお酒なので、本来は厳密な管理が必要なんですが、当時の海外の人は日本酒の保管方法なんて知りません。だから日本酒は劣化します。そんな不味い酒をいくら振る舞ったところで、広まらないのは当然ですよね。
でも、新潟のお酒が美味しいのは本当です。だったら、日本酒本来の味わいを体験し、感動する場所を作るしかない。「よし、海外で日本酒のテーマパークを作ろう」って思いました。

大きいですね(笑)。

そうですよね(笑)。現実的に落とし込んでいった結果、最終的に「感動できるレストランを作る」という考えに至りました。しかし、私はビジネスの構想があっても、料理人ではないですし、酒作りもできません。コネクションもなく、結局ここでも、ゼロイチでいきなり飛び込むことになりました。
そこから、日本酒を世界に広めていきたいと考えるパートナー達と出会い、実際に日本酒のレストラン「GODENYA(ごでんや)」を香港のド真ん中、セントラルという地域に開業したのが2015年です。しかし、日本酒を輸出した時と同様、いきなり日本酒のレストランを海外で始めて、お客さん来ますか?って話なんです。明日倒産してもおかしくない程のキャッシュフローにもなって…割愛しますが、本当に大変な時期が続きました。

事業が軌道に乗る、ターニングポイントなどはあったのでしょうか?

これは本当にたまたまなんですけど、オープンの1ヶ月後ぐらいに、シティガイド誌『Time Out(タイムアウト)』のライターの方が来店してくださったんです。その方は店で提供する料理と日本酒のペアリングをとても気に入ってくださって、なかなか出ない5つ星の記事を執筆してくれたんですよ。
その後、雑誌が発行されるやいなや、ものすごい勢いで予約が入ってきたんです。みるみる予約で埋まっていき、3ヶ月先まであっという間に満席になりました。当時の私は本当に毎日が辛くて、気が気じゃない状態でしたから、このように予約がブワーって入っていくのを見て、「ついに幻覚を見始めたのか自分は…」と思ったくらいです(笑)。そこからV字回復が始まり、「神風ってあるんだな」って感動した事は、今でもはっきりと覚えています。

やっぱり諦めずに続けたからこそ、運も味方してくれたんですね。

今振り返ればそう思えますけど、当時は大変でしたね。香港には海外の方も多くいらっしゃいますので、店の評判が広まるということは、同時に日本酒の認知が世界へ広まっていくということでもあります。ここで、10年前に抱いた「世界と日本酒を繋ぐ」挑戦は、一つの結果を出せたかな、と思いました。
実際のところ、2023年、2024年、2025年と3年連続でミシュラン一つ星も獲得することができました。ちょっとおこがましいですが、日本酒とその文化に対し、ある種の貢献ができたかなと。これが香港でのビジネス、Ahead of the curveの創業から10年の歩みです。

挑戦と持続が、新しい未来をつくる。

熊谷社長は常に情熱を持ち、諦めずに行動されていますが、同じように「夢や思いはあるのに、なかなか形にできない」という方に向けて、アドバイスをいただけますか。

事を成すには一歩踏み出さなきゃダメですよね。一歩踏み出せば失敗するかもしれないけど、成功するかもしれない。ただ、踏み出さない限り、絶対に何も起こりません。実は、「何もしないことが最大の失敗」なんです。
これまでの失敗から学んだことですが、私は準備30%の段階で動きます。これには理由があって、最初に進んだ方向で失敗したと思えば、戻ることもできるし、別の方向にも進みやすいので、軌道修正がしやすいんですよ。とはいえ、現在進行形で色々とプロジェクトが動いていますので、これからも様々な失敗をしていくと思います。
挑戦には失敗か成功しかないわけですが、失敗を失敗のままにしないことが大事。やっぱり「自分が決めた選択を成功させていく」ことでしかないんですよね。 私も本当に色んな事をやりましたけど、新しいものを創るっていうのはアートであり、一つの奇跡であり、運でもあり…いろんなものが関わります。だから、「こうやったら成功するよ」とは言えないですね。だって、必ず苦しむ時期が来ますから(笑)。もしアドバイスをするとしたら、「必ず苦しい時期が来るけど、諦めちゃダメだよ」ってことですね。

熊谷社長にとって、「成功」とはどのような状態のことでしょう?

私の考えでは、今後Niigata Re-Findが数兆円規模のビジネスになる事は、ほぼないと思っています。
じゃあこの事業の「成功」ってなんなの?って話ですよね。私は、「成功とは持続すること」だと思うんです。だって、赤字だったらその事業は続けられません。持続するということはすなわち、利益を生んでいるということなので。
それから、Niigata Re-Findが持続すれば、「地方でも起業できる」「世界に向けたビジネスができる」「挑戦は可能なんだ」ということを示す成功事例にもなるので、それ自体が大きな価値になると思います。なので、この事業を育てていく事そのものが、次の世代の起業家たちの、ネクストステップを作っていくことでもあると思っています。

それは、若い起業家たちが挑戦できる土壌をつくる、という事でしょうか。

そういうことを誰かがやらないといけない、という思いはあります。やっぱり、こんな田舎にビジネスを起こすって大変なんですよ。だから、道はつくっていきたい。
私はこの場所で、なんとかビジネスを始めることができました。もし、私が若い起業家達の“先輩”という立場になるのだとしたら、あらゆる面でサポートをしていきたいと思っています。最終的に挑戦するかしないかを選ぶのは本人ですけど、「熊谷幹樹っていう破天荒な人がいた。だから不可能ではない」っていうモデルにはなりたいですね。

インタビュー:2025年2月

Information

株式会社 Ahead of the curve2014年創業。「時代の先へ、そして世界へ」を理念に、日本の文化や伝統に根ざした事業を世界へ向けて発信する。日本酒と料理のペアリングを楽しめるレストラン「GODENYA」では、ミシュランガイド一つ星を3年連続で獲得など、受賞歴多数。また、「新潟から世界へ」をコンセプトに始まったプロジェクト「Niigata Re-Find」が始動し、様々な視点から日本と新潟を楽しむ機会を創出する。1日1組限定のオーベルジュ「Né」は、2025年夏にオープン予定。

〒107-0062 東京都港区南青山3丁目1番36号青山丸竹ビル6
G/F, WELLINGTON STREET 182, CENTRAL, HONG KONG
URL:https://ahead-of-the-curve.com.hk/

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