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column 25

株式会社アイセック2023.04.17

偶然と必然、
すべてを糧に挑戦し続ける。

15歳から健康診断に興味を持っていたという木村社長は、ヘルスケアのビッグデータを活用し、新潟県の健康な生活と環境の向上・健康文化の創造に取り組んでいます。その活動の原点には大好きだった恩師との別れ、そして身近な人たちの存在がありました。木村社長の夢に向かって挑み続ける情熱と、これからの夢について伺います。

木村 大地(きむら だいち)1980年生まれ。新潟市出身。新潟明訓高等学校卒業後、首都圏の大学に進み、新潟県労働衛生医学協会に入職。厚生労働省の特定健診・特定保健指導システム開発受託企業の統括マネージャーを経て、2011年株式会社リンケージ創業、2019年代表取締役を退任。同年に新潟大学大学院医歯学総合研究科に入学と同時に新潟大学医学部発のベンチャー企業 株式会社アイセックを創業。趣味は登山で、特に過酷な雪山を好む理由は「無になれるから」

新潟大学医学部発のベンチャー企業

まず、アイセック様の事業内容をお願いいたします。

アイセックは主に4つの事業で展開しています。

一つ目は、ヘルスケアのビッグデータ分析事業として、自治体や企業の医療・健康に関わるデータを匿名化して分析し、それぞれの傾向や対策を講じる仕組みを作っています。課題を可視化するだけではなく、医学的化学的エビデンスをもとに対策方法まで提言を行なわせていただいております。

二つ目はオンライン健康教育です。我々は「健康の土台は教育が全てである」と考えています。私たちは、わざわざ不健康な生活習慣を選択しがちですが、それは学校や会社で健康に暮らすための手段や知識を学ぶ機会が無いからなんですよね。なので企業様や地域に対して、エビデンスに基づく健康教育を届ける仕組みを作っています。

三つ目がオンライン健康相談事業です。例えば「妊産婦は平均的に約14パーセント程度がうつ病になる可能性がある」と言われているんですが、コロナ禍でそれが倍増し、現在は3割ほどと言われています。アイセックでは新潟大学の精神学教室の方々と「妊産婦のメンタルヘルスを解決できないか」というテーマのもと、オンライン診療の仕組みを作り、今は新潟県や福島県の自治体や、複数の企業様や保育園等でもご活用いただいております。今後は助産師や保健師等とも連携しながら、ココロのメンタルヘルスだけではなく、カラダのフィジカルの相談もできる、健康全般の支援をしていく仕組みの開発を進めているところです。

最後四つ目は、健康経営の推進事業です。これは「個人に委ねず、働く環境から健康になる仕組みを作ろう」という取り組みで、経営者からすると、生産性が上がり人材採用も有利に働きますし、働く人にとっては、会社に誇りを持ちながら生き生きと働き続けられるということで、新潟県や各メディアの方々も力を入れており、当社で企画運営等の支援をしています。

その他にも県内の各企業様に寄り添いながら、より医学的にも効果的な健康経営が推進できるような支援をさせていただいております。

健康って自分自身で何とかするものだと思っていましたが、そういった支援があると心強いです。

四つの事業全てに共通していることとして、健康診断や各種健康づくり事業に対して、やりっぱなしにせず、やったことを正しく評価する、ヘルスケアのアセスメント(評価)を仕組み化しようと思っています。今までも自治体や企業様も様々な取り組みを一生懸命されてきたんですけど、実施することが目的になりがちでした。

事前に医学的科学的根拠に基づく計画を立てて実行し、正しく評価を続けてPDCAを回すことで、次の世代に繋がる仕組みとしてバトンをつなげると思うので、我々は全ての事業においてヘルスケアのアセスメントに力を入れています。

アイセック様は「新潟大学発ベンチャー称号認定制度」第1号の企業として様々なところで取り上げられていますが、立ち上げにはどのような経緯があったのでしょうか。

まず新潟大学には10の学部があるんですが、それぞれ高名な先生がいらして素晴らしい取り組みをされています。ただその研究やエビデンスが社会実装されるための産学連携に関しては、これから強化していくフェーズにありました。

一方、私は元々ヘルスケア領域の社会課題については多くの事例を把握しており、解決策も何となく頭にイメージがあるのですが、そこにエビデンスが不足していたんですね。そこで、新潟県内ではヘルスケアのビッグデータを多く保有し、論文投稿数も際立っている曽根教授の教室で学びたいと考え、新潟大学大学院医歯学総合研究科(修士課程)に入学しました。

当初は純粋に曽根教授の元で「医学を一から学びたい」と思っていたんですが、曽根教授も長年、「教室で保有するさまざまな研究成果やアルゴリズムを新潟県民に社会還元したい」という思いを強くお持ちでした。ただ日々の診療であったり研究をずっとやっていると、自治体や企業と連携して実装していくための時間やマンパワー的なリソースが足りないことから、なかなか実現できなかったという背景があります。

お互いの足りない部分を補い合い、共に大学が保有するエビデンスを社会実装していくことが長期的にこの社会を良くすることに繋がると思い、2019年12月に新潟大学医学部内科発のベンチャー企業アイセックが設立されました。

データを読み解くと、ストーリーが見えてくる

ビッグデータから、具体的にどのようなことが分かるのでしょうか?

例えば、新潟市を「政令指定都市」の中で比較すると、「新潟市の脳梗塞死亡者割合は全国でワースト1位で、全国に比べて約2割ぐらい高かった」ということがデータから分かります。さらにそのデータを紐解くと、新潟市8区行政区の中で「ある区が5割ほど高かった」という状況が分かってくるんです。

この状況には色んな要因があると考えられます。例えば、脳梗塞で倒れた後の医療機関への交通アクセスの問題もあるかもしれませんし、日々の生活習慣から血管が詰まりやすい状態や、血圧が高くなってしまう要因が多い地域なのかもしれません。また地域の食文化などが関連する場合もあります。我々はそういった研究や事例といった膨大なエビデンスを先行研究調査として収集し、データから読み取れるものを、対策というストーリーやメッセージと共に皆さんに届け、「どのように日々の生活習慣を見直し改善すれば良いのか」という部分まで伝えていく必要があると思っています。

ビッグデータという膨大な情報の中から何かを見つける瞬間ですとか、「いけるな」と思う場面はどのような時ですか?

我々は自治体のヘルスケアビッグデータや、新潟市や新潟県の様々なデータ、それ以外に企業様の健康診断結果に加え、ワークエンゲイジメントやプレゼンティーズム(労働生産性)、ストレスチェックなどのデータも取り扱っております。多くの方々の経年データを分析していくと傾向が見えてくるので、「この属性の人たちにはこういう課題がある、ここの部署の人たちはイキイキ働けている」といった今まで感覚値だったデータの、明確な可視化が可能となります。

今までお医者様や学者、または担当者の方々が経験や感覚で想定していたことを、根拠を元に課題を可視化できるのは、やはりデータがあるからこそですね。ですから私たちが挑戦を重ねれば重ねるほど課題の精度も向上しますし、解決策も明確な打ち手が提供できるようになっています。それがつまり「いけるな」というところに繋がるんだと思います。

事業開始直後に新型コロナウイルスの流行が始まりました。どのような影響がありましたか?

実はアイセックの創業計画書では、データ分析と対面の健康教育の2事業だけをする会社だったんです。前職からの繋がりで多くの大手企業様から「木村が新潟で会社を作るなら、新潟支店で健康教育を対面でやってほしい」というニーズがありました。

そして会社を作ったのが2019年12月、その1~2ヶ月後には一気にコロナが蔓延して対面の健康教育はできなくなりました。そこでeラーニング健康教育を企画していたら、「新潟県アフターコロナを見据えたイノベーション創出支援事業」に採択されました。そこから一気に加速したので、実はコロナウイルスの流行がなければオンライン健康教育事業は生まれなかったと思います。

あと、ビッグデータに関してコロナで何が変わったかというと、全国民が健康に対してデータを見る日々が急に、強制的に与えられたことですよね。今までは「エビデンスって何?」という反応でしたが、毎日メディアから感染者数が発表されたり、それはなぜ起こったのか公衆衛生学的な見解がニュースで流れてくる環境になりました。国民のデータに関するリテラシーが一気に上がったので、我々が進めている事業のイメージが自治体や企業の方々と共有しやすくなったというのは、大きな追い風だったと思います。

ちょうど国民の関心も高まってきた時期だったと。

新しい文化やサービスが生まれる時って、歴史を紐解くとそれらの転換期には震災や天変地異、感染症、そういうものが必ず起こっているんですよね。

なのでこのコロナウイルスの流行というタイミングで、たまたまアイセックが立ち上がって、たまたま新たな事業が生まれてきてると考えると、必然のような感覚を抱いております。

確かに偶然ではなく、ある意味必然だったかもしれません。

そうですね。私も必然という言葉が好きなので色んな場面で「必然でした」と言ってますけど、その通りだと思います。

別れを乗り越え、思いは身近な人たちへ

木村社長はどのような幼少期を過ごされましたか?将来の夢などはあったのでしょうか?

幼少期はただもう毎日が楽しくて遊んでばかりいました。他のご家庭と比べると、家族といる時間が長かったんじゃないかと思います。両親と毎週末遊びに行ってましたし、夏になればキャンプに行き、冬になれば雪山に行ってスキーしたりしていたので。

あと、平日はもうほんと友達と外で遊びまくってたので、思い返すと勉強しなかったなーというのが一番の思い出でしょうか(笑)。どんな職業になりたいとかは一切なかったですね。ただ何事にも好奇心があった少年時代だったと思います。

幼い頃から色んなところにアンテナを張って、物事に興味をもつような環境だったと。

そうですね、親の教育なんでしょうね。「あれ何だ?」とか「これ何だ?」ってよく隣で言われていたので。「これは何だろう?どうなってんだろう?この二つは何が違うんだろう?」って見る癖は父母の影響かもしれないです。

その点も含め、環境って大事だと思います。私の親が一番大切にしてたのは常に子どもでした。何があっても私や妹のことを常に信頼してくれていました。なんかそれが今、私自身を信じる力につながり、大きな原動力になっています。何でも挑戦できる性格は、やっぱり親の信頼というのも大きいのではないかと、最近特に思います。

首都圏の大学を卒業後、医療業界に進まれましたが、興味を持たれたきっかけがあったのでしょうか?

私15歳から健康診断に興味を持ってまして…ってこれ言うと、どの人にも「変わってるね(笑)」って言われるんですよね。当然ですよね、同じことを言う人に私も出会ったことがありません(笑)。

私は小さい頃からずっと剣道をやってまして、地元の剣道教室に通っていました。その剣道教室と剣道の先生が大好きで、先生とは釣りに連れて行ってもらったりキャンプに行ったり、剣道の稽古以外にも色んな楽しい思い出があるんですけど、私が中学校に上がる13歳のころ、先生が47歳の時に喉頭がんを発症しました。

今でも忘れないんですが、先生が実家に電話をかけてきてくださって、本当にかすれた声で「大地、俺はがんになった。これから病院に入院する。今まで通り稽古もできないし遊べない、ごめんな。」という話だったんです。

先生が大好きだったので、県立がんセンターに入院された後も、幼なじみと自転車こいで隔週の頻度で会いに通ってたんですよね。そんな経験から、人が病気に罹患した後にどうやって闘病生活をして、どのように最期を迎えていくのかという現実を、知らず知らず教えてもらいました。

先生は亡くなる一か月前、私と幼なじみを病院の待合室に連れ出して「俺はもう1%しか治らないという手術を受けることにした。死にたくないんだ。」という話をされました、当時49歳の大人が大粒の涙を流し続けながら。

先生とは色んな思い出があるんですが、その先生から学んだことが二つあります。

一つは「人はどうやって死を迎えるか」

もう一つは「人はどうやって後悔して死んでいくのか」です。

結局その一ヶ月後に手術を受けて、先生は帰らぬ人となったんですけど、やはりそれがすごく衝撃的でした。その後お葬式の時に奥様が「健診さえ受けてればねぇ。」ってポロッとおっしゃったので、「だったら健康診断を全員受けちゃえばいいのに」と…。本当に純粋な思いですよね。15歳なので右も左もわからないですけど、「世の中の人全員が健診を受けられるような世界を作ろう」って思ったのは、先生の葬儀が終わった夜でした。

今もその思いはずっと変わらないどころか、むしろ増すばかりです。健康診断という手段を活かして、受診後の生活習慣を見直して、後悔しない生き方を選択してほしいと思っています。

これまで目の前の課題から逃げずに立ち向かい、過去の前例に固執せず新たな挑戦を続けられるのは、そういう原体験が基にあるからなんだと思います。

その体験を基に、最初に就職したところが健康診断関係の企業だったんですね。

大学生の時は政治家になれば世の中を変えられると思い、4年間議員事務所で働いてみたのですが、これは違うなというのも分かって。そこで現場から変えないといけないっていう一つの答えが出ました。地元の新潟に戻り、少しずつこの世の中を変えていきたいという思いで、新卒で健康診断を実施する「新潟県労働衛生医学協会」というところに入職しました。

15歳での先生との別れが人生のターニングポイントだったと。

私の人生のターニングポイントは15歳と30歳ですね。15歳は剣道の恩師の死ですし、30歳の時には東日本大震災がありました。

私は健診機関で4年間勤めた後、厚生労働省のシステムを作る会社に入社し、日本の健康診断データの規格を統一化する事業に携わりました。そのプロジェクトに参画して、国や医師会、様々な関係団体と調整を重ねる業務も担い、日本の縦割り行政というものがまざまざと見えたので、一人一人の市民を真摯に考えられる横串を通したモデルが必要だと思いました。35歳くらいになったら起業しようと考え、29歳の時にMBAを取るために経営学の大学院に入学して学びはじめた一年目の2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。

その様子を東京のテレビで見てたんですが、たまたま東京にいた私は生きていて、たまたま被災地域の生きたかった多くの方々がテレビ越しで亡くなっている。

その時にふと「今生きていて将来やりたいことがあるなら、数年後じゃなくて今やるべきだ!」と思ったんです。震災の、確か一週間後ぐらいに当時勤めていた会社の社長に直談判して、2011年6月1日に「連動する」という意味のリンケージという、一社目の会社を起業しました。そんな背景なので、30歳もターニングポイントですね。

その後も首都圏で挑戦を続けられますが、再度地元新潟に戻ったのはどのようなお考えだったのでしょうか。

それはターニングポイントとは別に、大きな転換期がありました。2013年、33歳の時に経産省や厚労省の採択事業を受けながら、東京でオンライン診療の仕組み作りに関わる実証をいくつも行っていたんです。オンラインで海外駐在員のメンタルヘルス、2015年には沖縄県の離島のメタボ指導、2016年にはオンライン禁煙外来などなど、様々なオンライン診療の事業を開発して、最終的には2017年に内閣府で法改正提言まで行い、医師法の規制緩和を実現しました。

そうやって色々と成し遂げていき会社も大きくなり、上場フェーズなどを議論する中で「多くの人に貢献できる範囲が広がったけれど、これは自分の父親母親に貢献できているのか、じいちゃんばあちゃんに貢献できているのか」って考えたときに、少し虚無感に駆られるというか、「もっと一番身近で大切な親族に健康の分野で貢献して、恩返しがしたい」って、なぜかよく感じる時期があって。

次第に自分の挑戦を還元する先は全国民ではなくて、もっと焦点を絞って、父親母親、じいちゃんばあちゃん、親戚、友達、生まれ育った新潟の地…そんなふうに貢献したい範囲が30代後半からふつふつと湧き上がってきたんです。多分それが地元に帰ってきた原点だと思います。

実は私の母方の祖父と兄弟は、満州から命からがら帰ってきた引揚者でした。また曽祖父は戦場から帰ってこられず、残っているのは手記だけです。父方の祖父は逓信兵として戦地に赴きましたが、帰還後に戦争のことは一切語りませんでした。

このように、先祖が繋いでくれた命のバトンの末に私の人生があり、この記事を読んでいる多くの方々の背景にも同じようなストーリーがある。私たちが授かった命は決して当たり前のものではなく、"有難いもの"だということを忘れてはいけないと思っています。

そして40歳を前にして残りの人生を考え、「祖父母や両親や友達や新潟という地に恩返しする・そして未来の子供の世代にも時代に合った価値ある健康文化を受け継ぐ」って目標を絞った時に、次に挑戦する先は地元の新潟だと選択が定まったので、新潟に戻ってきました。

新潟の健康文化を、子どもたちの誇りに

今後、新潟でどんなことをやっていきたいとお考えでしょうか。

「新潟でこれから生まれてくる子ども達のために、健康な文化・風土を作っていきたい」この一言ですね。もう健康にまつわる事は全て挑戦しようと思っています。

人はわざわざ不健康な生活習慣を選択しがちですが、正しい知識さえあれば選択は違うかもしれないですよね。これって個人の責任ではなく環境の責任なので、我々としては自治体や企業様を通じて、「生きていると自然と健康になる仕組み」を、新潟県全体で作っていきたいと思います。

実現できれば「子ども達が誇りに思える地域」につながると思っています。誇りに思えるものって色々あると思うんですが、私はそれが「健康」という文脈の中で、誇りと思える地域を作りたい。それは新潟県が推し進める「健康立県」というビジョンへの貢献や、全国で一番健康寿命が長い地域にしたいって思いでもあるんですけど、それ以上の高みを目指したいので「世界一の健康な街を作りたい」と思っています。また言い続けていれば必ずできると思っています。

木村社長は本当に生き生きと夢に向かって挑戦されていますが、そのためにどんなキーワードをお持ちなんでしょうか。

私は今まで本当に多くの先輩方に恵まれてきました。いただいた言葉がいっぱいある中ですごく大切にしているのは「勝負は今じゃない」という言葉です。

経営や日々の生活等、目の前のことに一生懸命になり過ぎてしまうと、そこで生まれるギャップがストレスや焦燥感につながると思います。ですが、私はこのキーワードさえあれば「勝負は今じゃない、5年後、10年後に勝負するんだ」って思えて、いくらでも挑戦できますし、いくらでも失敗を財産として変換ができるので、これは一つの大きなワードだと思っています。

あともう一つは、「偶然の出会いはすべて必然である」という言葉です。これは厚生労働省のプロジェクトに携わっていた時のお師匠さんが飲み会の度に必ず言っていた言葉です。

冒頭のコロナ禍における新規事業の話やアイセックの立ち上げもそうですが、応援してくれる方々、協力してくださった新潟県内の方々とは偶然出会っているんです。でも後々思い返すと「あれはやっぱ必然だったんだな」ってことあるごとに感じるので、「偶然はすべて必然である」という言葉も本当に大切にしています。

実は、その必然が来る時って予兆もあって、何か自分で準備したり知識を得ている時とかに“ぽん”と必然が舞い込んでくるんです。勉強し続けることとか、アンテナを張り続けることで、その必然をキャッチできると思うんですけど、結局それは自分の努力次第だということなのだと思っています。

今後さらに挑戦したいことや、夢などはございますか?

まず基本を忠実に考えています。アイセックが立ち上がった経緯であるヘルスケアのビッグデータを分析して、新たな時代に即した様々な事業を展開していきます。ですがベースとなるのはやはりアセスメント(評価)をしっかりすることだと思っているので、我々の医学的なエビデンスを元にした研究デザイン、事業デザインを行い、実証を重ねながら文化を作っていきたいと思います。

そしてその文化を作るフィールドは新潟です。新潟の自治体や企業様と共に創った文化を、新たに「新潟モデル」として全国、また全世界に提供できる仕組みを作っていきたいと思います。日本は健康診断という法律に定められた文化があるんですが、世界には無い地域もまだまだ多く、今後「健康診断」という手段を活用して生活習慣をより良くできる仕組みを作り、多くの地域や国々で導入していけると思います。

「新潟といえば健康」とか、「新潟といえば健康教育」とか、「新潟といえば健康文化」というストーリーを新たに作って発信していきたいと思いますし、それが先ほど申し上げた、「子どもたちの誇り」に繋がる仕組みにしていきたいと思っています。

最後に20代、30代の方へメッセージをお願いします。

私が創業支援や毎年受け入れている大学生インターンに、必ず伝えているのは「やりたいならやってしまえ」ということです。

私もそうでしたが、若い頃は一歩踏み出す時には勇気が要りますし、その時に失敗するイメージや、やらない言い訳を自分に課せてしまいがちなんですけど、そういうものは全部取っ払って、失敗できるのも今しかないので、失敗できるうちに失敗した方がいいと思ってます。そういう意味で若い人たちには「やりたいと本気で思ってるならやってしまえ」と言ってます。

ただそこで一歩踏み出さないなら、「やるな」と言ってます。自分だけの人生ですが、周りにかける影響も十分に理解した上で一歩踏み出すことが社会人・大人としての責任だと思うので、自分の中で完結できないなら、やるなと言ってます。

この「やってしまえ、やるな」と相反する言葉は、本人からすると背中を押すだけの言葉ですね。年齢関係なく、本人たちは真剣に考えていますし、誰よりも自分の人生と向き合っているので、先輩としてはただただ信頼することが重要なのかもしれません。

あともう一つ、「謙虚であれ」と言ってます。

これは私も本当に多くの方々と出会って思ったんですが、私が尊敬する方々は全員が謙虚です。大きな会社を創業された方や官公庁の要職の方など、第一線で活躍されている方々は、謙虚なところが共通項だと思っているくらいです。

若い人たちは素直さが強みなので、素直なところに謙虚さを兼ね備えれば周りは手を貸してくれますし、相談すれば言葉だけじゃなくて自分のリソースや知恵や経験も全力で提供してくれるので、背伸びをせず肩肘はらず、常に謙虚であり続けることが重要だと思っています。これは自分にもずっと言い聞かせていることなんですけど。「常に謙虚であれ」っていうのは重要なことだと思っています。

インタビュー:2023年2月

Information

株式会社アイセック 新潟大学発ベンチャー認定企業の第1 号として創業。ヘルスケアのビッグデータの分析を基に科学的エビデンスを確立し、課題の抽出から提言まで行う。新潟県の健康な生活と環境の向上を目指し、「住むだけで健康になれる」仕組み作りに取り組む。

〒951-8126 新潟県新潟市中央区学校町通2-5274 新潟大学ライフイノベーションハブ内
TEL:025-378-8858
URL:https://iseq.co.jp/

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