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column 39

株式会社 IPS PLIERS2025.10.15

“何も無い”と思っていた
地元三条で、掴んだ誇り。

1940年創業のプライヤ専業メーカーIPS PLIERS。4代目代表を務めるのは現在32歳の内山社長。当時高校生だった17歳の目線では「三条には何もない」と思い、飛び出した東京の地で、尊敬する人から向けられたひと言が帰郷への思いを芽生えさせる。今、地元三条へ戻り、自身の経験を活かした様々な組織改革や、新たな挑戦に奮闘する。プライヤに掛ける思いや、若者への熱いアドバイス、自身のこれからの夢を伺った。

内山 航洋(うちやま こうよう)1992年、新潟県三条市生まれ。大学卒業後、東京のアパレル会社で経験を積む。26歳で帰郷し、五十嵐プライヤー(現:IPS PLIERS)へ入社。2021年、代表取締役に就任。“プライヤ専業”に徹する戦略でブランド力を強化。「本物を日本に残し、世界に伝える」を目標に、地域の若者や学生との交流にも積極的に取り組んでいる。好きなラーメンは燕三条系太麺背脂中華。『杭州飯店』の後継者とは高校時代のバント仲間。

何も無いと思った三条にあった、ものづくりの種。

三条市のご出身ですね。

はい。三条市生まれ、三条市育ちです。

幼少期にはどんな環境で育ったのでしょう。

両親が共働きだったので、よく父方の祖父の家に預けられていました。祖父は伊勢神宮に奉納される和釘を作る和釘職人で、工房の中で祖父の隣で過ごすことが多かった。火箸を使って、真っ赤にした和釘をハンマーで叩くんです。釘を打ち終わると同じ炉で市販の煎餅を焼いてもらって、それを「うまい」って食べていた思い出があります。そういったものづくりの現場がすぐそばにあったことは、今の自分の原点だと思いますね。

子どもの頃、会社を継ぐ意識はありましたか。

全くなかったですね。親の会社を継ごうとは一度も思いませんでした。先代からも「うちの会社を継げ」と一度も言われませんでしたし、思い返すと、それは先代の器のでかさだったと感じます。

学生時代、地元三条にはどのようなイメージを持っていましたか。

「田舎だな」と思っていましたし、今でもそう思います。だけど、学生のときと今では見え方は変わりましたね。東京で働いて三条に戻ってきたとき、景色自体は変わらないのに、三条に“日本を代表する会社や技術”があることに気づけた。外に出なければ気づけないことでしたね。

東京に行ったのは、三条を出たい気持ちが強かったからでしょうか。

三条は何もないと思ってましたから(笑)。中学・高校は絶賛反抗期で「早く東京に出たい」「親元から離れたい」とばかり思っていました。17歳の視点では本当に、この地域は“何もない”としか見えなかった。だから早く外に出て、何かあるところに身を置きたかったんです。学生の時は、何も考えてなくて、ただ好き勝手やってる、ほんとに生意気なガキとして生きてましたね。でも実際、自転車を漕いで通っていた通学路には、日本を代表する凄い技術や会社がたくさんあったんです。東京で働いて戻ってきたとき、景色自体は変わらないのに、三条の見え方が全く変わりました。地元には誇れるものがたくさんあるんだなって。

東京生活で芽生えた三条への思いと覚悟。

東京での生活はどんな感じでしたか。

そうですね。苦労はめちゃくちゃしました。自分がこれまで大事にしていた変なこだわりやエゴがボコボコにされる。自分の無力さを知ることができたし、逆に「自分は何者で、何をすべきか」という本質を考えるようになりました。

大学卒業後はどの業界に就職されたのですか。

アパレル業界です。僕が入社したのは革製品のブランド。どの時代にも通用する高品質なシンプルなデザインの商品を、修理・手入れしながら永く使おうという哲学でした。働いている人たちは皆、頭がよく、センスも抜群。みんな格好よかったです。東京での就職活動では、「ものづくりがしたい」という考えが自分の中にあったので、ものづくりに携わる就職先を幅広く探していました。その中で一番惚れ込んだ会社でしたね。

そこでの仕事はどうでしたか。

毎日がとにかく必死でした。ものすごく洗練された環境で、最初に就職した会社がここでよかった。と今でも感じます。私が今まで培った変な価値観と考え方をボコボコにされましたね。なかなか出来ない、本当に貴重な経験です。社長には決して曲げない信念があって、クリエイティブで、自分の考えを貫いている人でした。同時に思ったことはハッキリ言う。今だと色々ハラスメントに引っかかっちゃいますが(笑)ブランドの哲学は商品の姿として現れると思うんです。だからこそ、惹かれて入社したし、苦しい部分があったとしても、リスペクトしています。今でも。当時、社長と直接話す機会はなかなかありませんでしたが。

そんな憧れの環境に身を置く最中での帰郷の決定打は、なんだったのでしょう?

新潟へ戻る決定打となったのは、社長に言われたひと言です。
入社して3年ほど経ったころ、休憩室で弁当を食べていたとき、社長が偶然こちらに来て話しかけられました。「お前の出身地はどこなんだ」と。私は驚きながらも「燕三条という地域なんですけど、ご存知ですか?」と答えると、烈火のごとく「ものづくりの社長なめんな。当たりめぇだろ、知ってるわ!」と怒られたんです。社長が、僕の地元を当然のように知っていた。そのときにハッとしましたね。

田舎で“何もない”と思って飛び出してきた地元を、自分がリスペクトして入社した会社の社長が「ものづくりの地として当たり前に知っていて、それを認めている」。その瞬間、地元を誇りに思ったのと同時に「帰らないといけない」地元で自分がやらなきゃいけないことがある。と強く駆りたたれました。

これが私の生き方を180度変えた出来事です。
今まで当たり前に思っていた三条で生まれ、ものづくりの環境で家族に支えられながら育ってきたという深層心理に蒔かれていた1つの種が、東京での経験を通して「覚悟」という名の芽として出た瞬間でした。その日のうちに「帰ります」と父に電話をしましたね。迷いはなかったです。

三条で始めた、柔軟な仕組みづくりと新たな種まき。

入社となった「五十嵐プライヤー(現:IPS PLIERS) 」が手掛けるプライヤとは
どんなモノですか。

掴む・回す・挟むなど、多用途に使える道具で、自動車製造や建築現場から日常生活のDIYまで幅広く活躍するものです。僕たちが作っている「プライヤ」という工具は、多くの人にはまだ馴染みが薄いと思います。意外に思うかも知れませんが、皆さん馴染みがある「ペンチ」は和製英語で、実は海外では通じないんですよ。ペンチを含む挟み工具全般を英語で正しくは「プライヤ」と言うんです。

御社はそのプライヤを専業にされているのでしょうか。

そうです。当社は1940年に曾祖父が創業したプライヤ専業です。スパナやドライバーなど、あらゆる工具を1つのブランドで販売する「総合工具ブランド」が今の時代の流れですが、僕たちは真逆を貫いています。プライヤだけに集中して深く、鋭く、掘り下げる。だからこそプライヤだけで90種類以上のラインナップを持てる。世界的に見てもここまで多様なプライヤを製造しているメーカーは他にないんです。

何を基準に商品の種類を決めているんでしょうか。

最初は2つの種類しかなかった私たちのプライヤっていう工具が、この85年間で90種類を超えています。私たちが製造しているモノは、プライヤそのものというよりは「価値」だと思っています。
プライヤはその価値を表現するための側面でしかない。その価値を提供することで、「もっと、こういうプライヤが欲しいです」ってユーザー様が話をされたら、そこに新たな価値がありますよね。その価値を提供し続けるのが私たちの役割なのです。お客様が必要としている、世の中にない価値を製造し続けます。なので、必然とプライヤの商品数が増えていくんです。

ユーザーの声を聞いて作った数がプライヤの種類に比例しているんですね。

3代目代表の内山は商品のパッケージにアンケートハガキを同梱して、購入してくださったお客様からの意見を聞くことを始めました。当時、商品数がまだ十数種類だったところから、60品目ぐらいまで増やしました。それは、全部お客様の声に真摯に向き合ったからです。歴代も大切にしていた「メイドインジャパンの品質で叶える」ということを、IPSの商品で愚直に続けた結果ですね。2代目まではOEMの商品がほとんどだったので、プライヤは知っていても当社のことを知らない人は多くいると思います。

私が力を入れてるのは付加価値をつけたIPSブランドの開発です。資源を導入し、今までの開発スピードの5倍以上の早さで、開発して新商品を製造しています。4代目の私の役割は歴代が紡いだものを、IPSブランドで世界中の人たちに届けることですね。

社名を2022年「五十嵐プライヤー」から「IPS PLIERS」に変更されました。
2代目までが五十嵐の姓で、3代目以降が内山の姓ですね?

ほんとよく聞かれますので、もうこの場を借りて説明しますね。(笑)
当社はまず家内産業で、1940年(昭和15年)に、五十嵐製作所として五十嵐家が創業しました。3代目の内山晃、つまり私の父は母を五十嵐家から嫁にもらったので、僕の姓も内山なんです。

冒頭でも話したように内山家は和釘職人の家系。一方、五十嵐家はプライヤの製造業でした。2代目の五十嵐力には4人の娘がいて、その長女が僕の母。父はもともとニットメーカーで働いていましたが、僕が生まれた年に会社に入ったと聞いています。その後、父の内山晃が会社を継ぐことになりました。
それが社名は「五十嵐プライヤー」だったのに代表は「内山」という理由です。

いざ「五十嵐プライヤー(現:IPS PLIERS) 」に戻ったときの第一印象はどうでしたか。

「なんだ、ここは」でした(笑)。私が経験してきた東京とのギャップは大きかった。
でも、ものづくりに捧げる姿勢や価値観には強く共感できたので、そこでまず“仕組み”を変えようと様々なことに取り組みました。

具体的にはどんな仕組みを変えましたか。

あげるときりがないですね(笑)。あげるとしたら、最近『部課長制度』をなくしました。ネットワーク型組織ですね。一人ひとりのストロングポイントと会社の価値観を重ねたとき、どう貢献できるか。それが会社にどんな利益を生み、どれだけ自分に還元されるか。シンプルな話です。

私は「みんなの給料をとことん上げたい」と思って動いています。そのためには、全員が単に「会社からお金をもらっている」という意識から脱却しなきゃいけない。どうやって稼ぎ、そのための仕組みをどう作るかを、社員全員で考えて実行していかなくてはいけないんです。だから今は「一緒に稼ぐ仕組みづくり」を構築するために、会社の数値をみんなにプレゼンしながら開示しますし、裁量も振り分けをしています。なんのために自身が会社に存在していて何をしたいのか。
失敗することに対して私は叱りませんが、何も考えが無くて何もしない人にはだいぶ厳しい環境だと思います。みんなのために自分に何が出来るのか。その資源を自分自身が切り詰めていくことによって、全員の景色が変わっていくのを社員全員で愉しみたいです。

こういった取り組みは社員の働き方の意識が変わりますね。

この考え方に一人でも早く気づいて、その環境に身を置くこと。そうすれば会社のスピードは確実に上がります。
会社は組織なので、みんながエースストライカーばかりじゃ勝てない。チームにはキーパーもいればウィングも必要。だから自分がどういう役割を担い、どんなパスを出さなきゃいけないのか。それを早く知ることが大事だと思います。全部できる人なんていないんです。私も勿論「これしかできない」というものがあります。でも得意不得意があっていいと思います。結局は、「どう役割分担し責任を持つか」なんです。

内山代表が中心になってから、プライヤの認知度や、価値に変化を感じていますか。

ユーザー様、ステークホルダーの皆さんからは、「IPSの付加価値が増したね」って言っていただけています。私自身が大切にしていることは「本物を日本に残す、それを世界に伝える」ということです。私たちはプライヤの製造業なので、プライヤを通してそれをやっていく。そのことこそ私が大切にしている考えですね。IPSというブランドが何を大事にしてるか。日本は何を大事にしていかなきゃいけないのか。そういったことを通して、当社そのものと、これから行く先を知ってもらえているという風に私は感じています。

ただやれ。失敗を恐れず飛び立て。

社外や地元三条での取り組みはございますか。

17歳だった時の自分を今の学生と重ねて、学生たちに自分の経験を伝えるようなイベントを、大学と一緒に行っています。現在は「社長飯」というイベントに取り組んでいますね。私を含めて地域の社長が数人大学に行って、参加希望の学生にランチを奢って一緒に食べる。ランチをしながら、様々なことをざっくばらんに話せる場です。

学生が企業のトップとお話ができる機会はなかなか無いですよね。

なかなか無いですね。そもそも会社の代表に相談する機会なんてほとんどないでしょう。
この距離感こそが新潟含めた燕三条地域の、間違いなくストロングポイントです。コミュニティが狭い。初めて会った人でもなんでも教えてくれるんです。

先日も「社長飯」に来てくれた新潟大学の4年生から相談を受けました。後輩の就職活動の相談相手になっていて、「何をしたらいいかわからない」そんな相談ばかりを受けるようで、「その相談に対してどうしたらいいと思いますか?」と彼に聞かれたんです。そんなとき私は必ず「君はどうしたいの?」と聞き返すようにしています。彼は「それがわからないから聞いてるんです」と困った顔をしていましたが(笑)

その学生に対するアドバイスとしては、「社会人に必要な力は、学生になる前の能力、原体験の中にこそあると私は考えています。小学1年生になる前に何が好きで何が嫌いか、何にワクワクして、何に悲しかったか。それを因数分解すれば、自分が社会でどう生きたいか見えてくる。21年間の因数分解をしてみるように伝えてあげてください」と伝えました。
学生からしたら、社長とそんな本音トークする機会なんて普通はないですよね。燕三条だからこそできるんです。私たち社長側も、今の学生がどういうこと考えてるのか、何に悩んでるのかを知れる。お互いにとって意味のある時間になっていると思います。

まさに燕三条地域の特徴を活かした取り組みですね。

そうなんです。距離の近さがあるからこそ実現できる取り組みです。
ただ、それ故に存在する「あの人があそこにいたらしい」みたいな噂好きな文化があるのも事実で、正直言うと私はその文化は嫌いなんです。でも逆に考えると、それはこの地域の強みにもなる。

私自身でもそれは言えることで、自分の悪いところなんていくらでも言える。
でも大事なのは、自分のいいところを1つ見つけること。日本の教育では通知表がオール5だと褒められる。でも、なんで全部5じゃなきゃいけないんだろう?本当は好きなことを1つ極めればいいんじゃないか。そう思います。
その考え方は今のプライヤづくりにもつながってますし、これからの社会にも必要な力にもなると思います。
つまりそれが「個性」ですね。

首都圏へ流れる若い人材を引き留めるきっかけにもなりそうなイベントですね。

私は首都圏へ若い人が流れることは、悪いことでは無いと思っているんです。
私自身もそうだったように、やっぱり過酷な環境で自分自身が進んで苦労しないと気づけないことがいっぱいあると思います。

こういったイベントを通して、都会で経験してきたからこそ出来る物事の見方、価値観を備えた上で最終的に新潟に戻ってきてほしいっていうのが、私が思う学生との繋がり方ですね。人から言われてやるんじゃなくて、自分で気づいてやるからこそ身になる。それは、先代が私に「継げ」とか、「戻ってこい」って言わなかったからこそ、私自身が三条から離れた地で自ら気が付いて芽が出て、この身を捧げようとまで思う気持ちになって帰ってきた経験、そのものです。だから、そのための種まきを今のうちにしています。

今の20代、30代の若い世代に伝えたいことはありますか。

まず、言いたいことは「ボコボコにされてください」。
今までのぬるい環境から抜け出して、ハードモードへ自分の身を置いたとき、本当の身の丈を知ることが出来るんです。そこでは自分が今まで大切だと思っていた価値観を、きっとボロボロにされます。自分の行動に後悔するかも知れない。でも、それで良いんです。自分自身を客観的に見られるように、その環境をつくってください。

今の学生は失敗したくないと思う人が多くなっているし、実際に失敗する機会も減っています。AIが発達して、それっぽい答えはいくらでも出てくる。でも、せっかく僕たちは人間なんで失敗しましょうよ。
だからこそ、早いうちに失敗して、何度も立ち上がってほしい。挑戦してダメならダメ、良ければ良い。そうやった経験を何度もサイクルを回すことで、自分が「何になりたいのか」から逆算して生きられるようになると思います。常に自分を背伸びさせ、ワンランク上の環境に置き、地面と離れた箇所を経験と勉強で埋める。その繰り替えしが人として成長させます。自分の人生なんで自分で決めればいいと思います。

全ての世代へのメッセージにもなりますね。

年齢は関係ないです。もう自分は60歳だから、70歳だから、なんて歳で括る人もいますけど、大事なのは「今、自分が何をやっているか、何をやりたいか」。そのこと自体に年齢は関係ないです。まずは、すぐにやること。何度も挑戦して、何度もこけて、人に言われたらまずやってみる。自分が違うなと思っても、それもまずやってみる。そして実際にやってみて、初めて「ダメだった」と言える。茶道の守破離の考え方です。
そうやって挑戦を繰り返すことが、自身の人生に推進力を与え続けるんだと思います。
私より年上の人がこれを見ているかもしれない中で、めちゃくちゃ生意気なことを言っているんですけどね(笑)

挑戦しないことには成功も失敗もないですからね。

Just Do It。ただやるだけ。
何事もやってから判断すればいいと思っています。

これから、新潟県、燕三条地域としてはどのような挑戦をしていくべきだと思いますか。

この地域には、まだまだ伸びしろがあると思います。現状では恐らく、県外の人が新潟と聞けばスキーや米のイメージが強いけれど、本当はもっと私たちが見慣れた景色の中に世界に誇れるものづくりや食文化が詰まっている。私自身が世界に飛び出したからこそ見えている景色があります。

たとえば駅や街中に英語の看板や販促物をひとつ整える。英語を話せる人がいなくても、世界に発信できる観光導線をしっかりと整えるだけでも、もっと世界の人に来てもらえるし、触れてもらえるチャンスが広がる。私の海外の友達は冬に羽田空港から新幹線で越後湯沢に来てスノボをしたあと、新幹線で東京に帰っちゃいます(笑)本当にもったいない。

地域へのスポットライトの当てかた次第、魅せかた次第、かける音楽次第でどうとでも変わる。泣けるシーンでも、そこで激しいメタルの音楽を流したら全然泣けないのと一緒で、その地域に合わないことをやってても、この地域の本当の良さっていうのは伝わらない。文化にしっかりと焦点を合わせていく必要がある。
まず、その焦点を合わせられる共通言語を持った人たちを増やして、こういう思いに共感をしてくれて、地域として、新潟県として向かっていける人たちが増えると、新陳代謝が良くなって、更に新潟の良いところが目立つようになるはずです。

あと何年ぐらいで、新潟が変わりますかね。

だらだらやることでは無いので、12年ぐらいで変わるはずですよ。
きっと良くなります。

最後に内山代表がIPS PLIERSで叶えたい今後の夢を教えてください。

私の目指していることは2つあります。
1つ目は「工具を道具にしたい」ということ。
私たちが作っているプライヤは“掴む工具”ですが、それをもっと日常的に当たり前に使われる“道具”にしたいんです。たとえば爪切りやハサミのように、生活の中に自然にある存在に変えていきたい。工具と道具の境界をなくし、「道具としてのプライヤ」を根付かせたい。
2つ目は「私たちが作っているものを見て“ペンチ”という人をなくしたい」ということ。
ペンチは和製英語で、海外では通じない。正しくは“プライヤ”です。この言葉を一般的に広めて、根付かせることが僕の使命です。

私はこの2つの夢を、代表でいる間に必ずやり遂げますよ。

※一部当時の現場環境で使われていた表現で掲載しています。

インタビュー:2025年8月

Information

株式会社IPS PLIERS1940年、新潟県三条市に五十嵐製作所として創業。現在は見附市に本社を構える、日本唯一のプライヤ専業メーカー。スリップジョイントプライヤをはじめとする90種以上の製品を展開する。MADE IN JAPAN にこだわり、高品質、高付加価値を追求し続けるその姿勢が、国内外から高い評価を得ている。2023年「ソフトタッチネオ」がグッドデザイン賞を受賞。

〒954-0104 新潟県見附市坂井町1-4-3
TEL 0258-66-5445 FAX 0258-66-5586
URL:https://ips-tool.co.jp/

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