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column 33

株式会社新潟⼩規模蒸溜所2024.09.17

「好きなことを仕事に」。
ウイスキーで新潟の魅力を世界へ届ける。

「株式会社大谷」の敷地内一角に蒸溜所を構える「株式会社新潟小規模蒸溜所」は、堂田社長が大学時代に出会ったウイスキーに魅了され、その夢を追い続け誕生した新潟県産ウイスキーの蒸溜所です。新潟亀田の地でウイスキー製造を手がけるまでには、様々な出会いがあり、度重なる挑戦と困難を乗り越えてきました。地元の文化や風土を大切にしたこだわりのウイスキーは、海外で世界最高賞を受賞し、世界でも注目を集めています。ウイスキー製造の事業化にいたるまでのエピソードやその思い、次世代の挑戦者へのメッセージなど、お話を伺いました。

堂⽥ 浩之(どうだ ひろゆき)1975年生まれ。北海道出身。学生時代、ニッカウヰスキーの余市蒸溜所に訪れ、そこで試飲したウイスキーのおいしさに感銘を受けて、ウイスキーの虜に。その後、勤めていた製薬会社の赴任先がきっかけで、新潟の地へ。結婚を経て「株式会社大谷」へ入社し、2019年に「株式会社新潟小規模蒸溜所」を設立。子どもの頃からドライバーやスパナを駆使して、機械を分解することが得意であり興味があった。

人生を導いた、一杯のウイスキーとの出会い

まず、ウイスキーとの出会いについて教えてください。

ウイスキーとの最初の出会いは、20歳の時に大学のゼミの先生に連れて行ってもらったニッカウヰスキーの余市蒸溜所でしたね。今でこそ工場見学っていうと、予約が必要なほどとても人気がありますが、当時の余市蒸溜所は自由に工場見学もできるほど閑散としていました。そこで、歴史を感じさせる建物と自然との調和が取れたウイスキー製造施設を目にして、「こんなところでウイスキーが造られているんだ」と感銘を受けました。そして試飲コーナーで飲んだウイスキーの味もまた衝撃的で、その瞬間からウイスキーの虜になったんです。
おそらく余市蒸溜所限定のオリジナルウイスキーだったと思いますが、忘れられない味でしたね。その美味しさに感動して、またゼミの友達と朝から蒸溜所に行って、本当にもう、飲めるだけ飲んで帰ってくるといった形で。当時は、ほぼ飲み放題で、ウイスキーだけでなく、アップルブランデーやシードルも楽しむことができました。スナック菓子も売っていて、「ゆっくりしていってください」といった状況でした。今では考えられないですよね。

その体験が今の蒸溜所の経営へと繋がっていったのでしょうか。

そうですね。ウイスキー製造に関わる仕事に就きたい一心で、就活の時にも、総合職から技術職まで幅広く探しました。ただ、当時は日本国内だけじゃなくて、世界的にもウイスキー業界が厳しい状況で、更に当時は就職氷河期だったこともあって、就職先を探してもどこも募集していない状況でした。

では、社会人のスタートは?

最初は、東京の写真関係の専門商社に入って、フィルムやカメラの販売をしていました。この会社で知り合った人とも後からご縁があるので、人生って面白いなって思います。

その後、製薬会社に転職しました。きっかけとしては、30歳頃、耳の病気で入院した際に医療のお仕事に対してすごい興味を持ちまして、製薬会社のMR(医薬情報担当者)という存在を知りました。そして今までの営業職の経験を活かして、医療の営業もできるのかなと考えて、一大決心をして製薬会社へ。その後の赴任先がたまたま新潟だったんです。その転職がなかったら新潟に来ることはなかったですね。

新潟での奥様との出会いもお酒を飲む場だったと聞いています。

そうですね。当時、独身で新潟のこともよく分からなかったので、会社の先輩から「ここでご飯食べて帰ったらいいよ」って、先輩がよく行く大衆割烹居酒屋さんを紹介してもらって、週に2回ほどそのお店で晩ご飯を食べていました。そのお店に良く通っていたところ、お店の常連の会に誘われて、参加させてもらった時にたまたま、妻の尚子と尚子の母が来ていて。それで意気投合してお付き合いを始め、結婚した、という感じですね。

株式会社大谷さんに入社されて、まずどのような事業に取り組まれましたか。

結婚して株式会社大谷に入社した際、大谷は主にBtoCの事業に特化していました。そこから、BtoBの仕事を模索して、大きな会社さんと取引を始めるなど、新たな事業展開を進めていました。その後、埼玉県に訪問看護ステーションを設立しました。

新しい事業を模索されていた時期だったんですね。

株式会社大谷自体が「印章業一本足打法」の部分があって、ハンコ屋さんしかやってなかったんですよね。少子高齢化の中で、どうしても内需消費型産業なわけですから、いつか頭打ちになって売り上げが下がってくる時がくると考えた時に、果たして今の事業だけをやっていていいのだろうか?という疑問を、僕だけではなく、むしろ尚子の方が危機感を持っていました。会社を存続させるためには、何か新しい事業をやった方が良いんじゃないかとすごく考えていたところではありましたね。

事業挑戦への背中を押してくれた言葉

どのようにしてウイスキー製造に取り組まれていったのでしょうか。

そんな中、野村証券と野村総研が共催する『新潟イノベーションプログラム』に参加しました。参加費が100万円だったのでその大きい金額に迷いつつも、その時は新しいことに挑戦したいという気持ちもありましたし、日本のシンクタンクである野村総研の研究員と繋がることで将来の経営に役立つかもしれないと考え、参加することにしました。その時のスペシャルアドバイザーが、スノーピークの山井社長だったんですよ。その時の山井社長との出会いで、ウイスキー事業を考え始めました。

山井社長との出会いが事業化に繋がっていったんですね。

実はそのちょっと前にウイスキー事業をはじめようかなと思った出来事があって。
2016年頃、竹鶴の17年が3500円だったのが5000円に値上がりしたんです。僕が竹鶴の17年を晩酌しながら、「もう日本のウイスキーも飲めなくなるな」って、夫婦の会話の中でぼやいたんですよ。それを尚子が「なんで?」って聞くので、「日本のウイスキーは世界的な賞を取っていって、これからもっと人気になってくるだろうから、僕らの手の届かないものになっちゃうと思うよ」と話をしたら、尚子が、「じゃあ、自分で造ればいいじゃない」という風に言ったんですよね。
そう簡単に言っても…っていう話じゃないですか。いくつか大手の蒸溜所を見学していたので、あんな大きな設備を入れて事業ができるわけがないって、自分としては結構否定的だったんですよね。
でも、その中で尚子が「調べてみなきゃわからないでしょ」と背中を押してくれて。そこで、銀行を通じて日本の地ウイスキーをつくっている会社を紹介してもらい、福島、茨城、岡山の3社を訪問しました。各社の社長に時間を取っていただき、製造設備を見学しながら話を聞いているうちに、「もしかしたら、自分たちでもできるかもしれない」と感じたんです。今思えば素人の浅知恵なんですけど(笑)。

新潟県はウイスキーを造る風土に合っているのでしょうか?

新潟のような湿っぽい地域、湿潤な気候っていうのはウイスキー造りに合っています。
ただ、元々ウイスキーは寒冷地で醸造するのが常識でした。新潟の気温は冬は氷点下になりますが、夏は日本屈指の暑い地域です。その環境でのウイスキー造りには疑問を持っていたのですが、2000年代前半ぐらいに出来た台湾のカバランというウイスキー工場は、暖かい気候を活かして熟成を早めることで美味しいウイスキーを醸造し、世界的に注目されていました。それであれば、新潟の寒暖差も熟成に良い影響を与えるとわかったので、新潟でウイスキー造りを始めることを決めました。

ただそうは言ってもハンコ屋さんが、「自分がウイスキーが好きだから」なんて理由で新しい事業をやっていいのかもの凄く悩みました。その辺の倫理観とか、会社を私物化することになるんじゃないかとか、躊躇はありましたね。

躊躇や葛藤がある中で、実際にウイスキー造りをやると決めたのはどのタイミングでしたか。

やっぱり1番大きかったのは、『新潟イノベーションプログラム』で山井さんに言われた「好きなことを仕事にしなさい。なぜなら僕もそうやってきたから」って一言がとても大きくて。「自分も金物屋さんだったけれども野遊びが好きで、今ここまでスノーピークを成長させてきたけど、それは自分が好きだから、突き詰めていけるから成功できる。だから好きなことを仕事にするべきだ」っていう山井さんの話を聞いて、僕も尚子も夫婦でその言葉に凄く背中を押されました。あの山井さんの言葉がなかったら、踏み込んでなかったかもしれないですね。本当にご縁って不思議ですね。

情熱から誕生した新潟亀田の「地ウイスキー」

本格的にスタートさせ、社名を「新潟小規模蒸溜所」とされました。現在「新潟亀田蒸溜所」の名称も使われているようですが、これはどのような違いがありますか?

基本的に会社名は「新潟小規模蒸溜所」で、製造場所として「新潟亀田蒸溜所」という形にさせていただいています。

「亀田」という地名を入れたこだわり、地元を意識しているポイントはありますか。

昔はこのあたりが亀田町だったんですが、今では亀田の地名はこの亀田工業団地しか残っていないんです。だから、地域の名前を大事にしたくて「新潟亀田蒸溜所」って名付けました。亀田だけだと日本全国にあるので、新潟の亀田ということで、「新潟亀田蒸溜所」という名前にしました。

新潟は実は「醸造酒文化」なんです。日本酒は元より、日本で最古のワイナリーは岩の原ワインさんだったりとか、地ビール第1号がエチゴビールさんだったりとか、意外と洋酒にも造詣があります。
新潟の人たちは日本酒に代表されるような淡麗で辛口、フルーティーさがあるお酒の味を好む傾向があります。なので、僕たちもその味わいに焦点を当てています。軽い飲み心地ながらも、余韻が長くフルーティーなウイスキーを目指して造っています。

新事業を始めて、苦労された事やエピソードはありますか。

導入した製造機器は海外からの製品ですから、国内の業者さんにお願いできるところが限られていました。更に、丁度コロナのパンデミックと重なってしまって、日本に来て全部インストール等の作業してくれる予定の技術者が、海外から来ることが出来なくなってしまったんです。とりあえず機材を送るので、あとはそちらでなんとかして欲しい、という状況になってしまったことが本当に困りましたね。

ただ、新潟には日本酒の製造機器を扱う会社が多いので、日本酒の製造機器をメンテナンスしてくれる業者さんに頭を下げて協力をお願いしました。「ちょっとできるかどうかわかんないよ」と言われましたが、それでも、現地から送られてきた作業指示書を翻訳ツールで日本語に変換して、作業員の方に「どうも、こうらしいけどわかる?」って指示を出しながら、なんとか配管を繋げることができました。これは本当に手間がかかって大変でした。

更に極めつけが電気の配線でした。配線自体は業者さんにお願いできましたが、最終的なIOチェックというどこの配線が繋がっていて、この機械が動くかといった確認する人がいなくて、結局それは僕がやることになったんです。
そこで使ったのが、WeChatっていう中国のソフトで、このソフトがすごいのは、中国語で来たメッセージを翻訳ボタンを押すと日本語に変換できることなんです。こちらが日本語で書くと自動で翻訳してくれるので、このソフトを使って、「ここが違うからこの配線を差し替えろとか」中国の技術者と2〜3ヶ月もやり取りし続けましたね。それが本当に一番大変でした。

最後まで社長ご自身でやられていたんですね。

やってくれる人がいなかったので(笑)。
でも、そのおかげで今では機器が少し壊れたくらいなら「ここが原因かな?」ってすぐに直せるようになったので、結果的にこの経験が財産になったと感じていますね。

必要な製造機器が揃い、次はどのような準備をされましたか。

まず、ウイスキーを造るには免許が必要なのですが、醸造や製造の経験がないと免許が貰えないんです。
誰に相談しようかと悩み、東京にある『ウイスキー文化研究所』に連絡しました。そこには、日本のウイスキー評論家で第一人者の土屋守さんがいらっしゃって、しかも土屋さんが佐渡出身だったんですよ。そこで「同郷のよしみで話を聞いてくれませんか?」と相談してみたんです。すると、「2時間取ってあげるよ」と仰ってくれて、ウイスキーをつくりたいから是非手伝ってほしい、コンサルをしてほしいとお願いしたら、「いいよ、やってあげるよ」と快く引き受けていただきました。
それで、土屋さんから技術者を紹介してもらい、鹿児島にある本坊酒造の津貫蒸溜所に研修へ行きました。
昔からウイスキーを造りたかったという思いと、自分で技術を習得して、それを社員に教えられるようにならなければと考え、研修は自分で行くことを決めました。1ヶ月間の研修でしっかり技術を学んで、それを新しい社員や大谷の社員に自分が教えて、技術的に確立していこうっていう風に考えて、鹿児島で意識作りをさせてもらいました。

ある意味、昔の夢が叶った瞬間ですね。

そうですね、本当に幸せな1ヶ月だったと思います。

ここでも新潟という土地の縁を最大限に活かされていますよね。

そうですね。世界的なウイスキー評論家であり、日本での第一人者が新潟出身と聞いたら、それはもうやるしかないなと思いましたね。

完成した第1号のウイスキーができた時はどのようなお気持ちでしたか。

本当にどう表現したらいいのか難しいのですが、子供の頃、クリスマスの翌日に置かれたプレゼントを見つけた時のような喜びでした。完成したウイスキーを飲んでみて、「なるほど」と思いましたし、次はどうやってこれをもっと進化させようかと考えて、心からの嬉しさと同時に「もうやるぞ」という覚悟が更に固まった瞬間でしたね。

新潟と世界を繋ぐ、地元に愛されるウイスキーへ

ちょうど今年の冬、熟成にかかる3年が経ちます。ウイスキー造りにおいて独自のこだわりをお持ちですか。

やっぱり地ウイスキーなので、地元の人にどう愛されるかを本当に真剣に考えています。でも、国内だけで商売をして会社を存続させるのは難しい時代だとも感じています。だから、できる限り新潟のウイスキーを海外の人にも知ってもらい、海外の人が新潟という場所を知るきっかけになればと思っています。そうやって海外でも勝負できるようにしていきたいですね。

コロナ禍で事業が遅れましたが、それでも会社を説得してウイスキー事業を始めることができました。ただ、やるからには失敗できないという思いが強くあったので、日本や海外の大手メーカーさんの製造方法や香りに関する文献は大方読みました。その中で、自分が理想とするウイスキーを造るための仮説を立て、それを元に取り組んできました。

御社では、ウイスキー造りで用いられる「麦芽の黄金比」とは違う配合を採用されているそうですが、それはなぜですか?

黄金比というのは、実は機械を操作する上でのリスクも考慮して決められているんです。製造過程でのリスクを避けるための比率が黄金比なんです。でも、僕たちはリスクを少し取ってでも香りが高くなるような比率を選んでいます。他の会社さんのウイスキーよりもフルーティーさが強調されるように、自分たちで考えた比率で造っています。
もちろん黄金比というのは、香りも考慮した上で、過去の職人たちや研究者たちが導き出した結論なので、その黄金比を否定するつもりは全くありません。ただ、その中から自分たちなりのアレンジを加える形でやっています。

完成したウイスキーはコンテストで沢山の賞を受賞されました。堂田社長の中で心境の変化はありましたか?

今年、7つの商品を出して全部受賞したんですけど、正直ちょっと出来すぎかなって感じています。もちろんPRはしますが、その反面、来年以降の自分にかなりプレッシャーがかかりますよね。コンテストに出すことは、賞を取るための商品を造るというよりも、自分に対する良いプレッシャーになっています。今年よりもいいウイスキーでないと結果が出ないし、もしかしたら何も賞をもらえないかもしれない。
だから、常に昨日よりも今日、今日よりも明日、より良いものをという気持ちでやっています。

新潟県妙高市に蒸溜所を計画するとの発表を拝見しました。なぜ妙高でウイスキー造りをしようと思われたのですか?

お酒にとって大切なのはやっぱり水なんです。ここ亀田も阿賀野川からの流水があり、とても良い水が使えますが、妙高はさらに水が良い。新潟でも随一の水質を誇る場所ですし、ウイスキーを熟成させる環境としても、新潟平野の平地と妙高山の山裾では味わいが違ってきます。

さらに、現在の製造設備は規模が小さく、もっと多くの人に自分たちのウイスキーを飲んでもらうためには、今の規模では難しいと感じています。加えて、亀田蒸溜所は見学施設が整っていないので、一般の見学希望の声に応えられていません。
多くの方から「工場を見学したい」とお声をいただいていているのですが、この場所の規模では、そういった施設を整備するのも困難です。ただ、自分の過去の経験からも、見てもらうことがウイスキー造りの大切な要素の一つだと思っています。
だから、次の工場は、誰でも気軽に入って見学できる施設にしたいと思っています。こういった色んな思いがあって、妙高に新しい蒸溜所を作ろうと考えました。

妙高ではスキーを軸に、オーストラリアからのインバウンドが活発です。

亀田蒸溜所もそうですが、海外の人に新潟を知ってもらうことの一端を少しでも担えられれば、それが地域貢献になると思っています。それが広がって「新潟に行ってみたい」と海外の方に思ってもらえることは、本当に大切なことだと感じています。そういう意味でも妙高という場所は理想的だと考えています。

堂田社長が自分の中で大切にしているお考えはございますか?

人との関わりって、いつどこで誰に影響を受けるか分からないものです。本当に『一期一会』だと思いますし、人の繋がりはとても大事だと感じています。この事業も、多くの人に助けられ、多くの人と出会ってここまで来ました。その誰か一人でも欠けていたら、今の状況はなかったと思います。本当に、人との繋がりの大切さを強く感じていますね。

堂田社長はご自分の好きなことを仕事にされ、人生を楽しんでいらっしゃるのが伝わってきます。そんな風に生きていくためのモットーはありますか?

迷いがある時や何か決断をしなきゃいけない時に、やるかやらないかで悩むことってあると思います。そんな時、僕が考えるのは、「自分が動いてやってみて、後悔するならそれでいいんじゃないか」ということです。それをやらないという選択をすると、結局後々「やっておけばよかった」と思うことがありますよね。そういった後悔はどうしても後々まで残ってしまうので、迷った時にはやる方向で進むことを常に心がけています。

ウイスキー造りの未来に向けた働きかけはどのように進められていますか。

これから、僕たちが造ってきたウイスキーの3年目のファーストリリースを出す予定なんですが、ウイスキーの事業って木を植えるのと同じだと思っています。なので、今はその木の根をしっかり張るために、全ての力をそこに注いでいます。これから木が大きく成長していくためには根をどれだけしっかり張れるかが重要だと思っています。
将来的には次の世代の人たちがその木を大きく育てていく役割を担っていると思っています。なので、今はその基礎をしっかり固めることに力を入れていますね。

これからの展望などがありましたら教えてください。

最近では若い方を中心にハイボールなどで蒸溜酒の世界に触れていただく方も増えたと思うんですけれども、そこからもっともっと興味を持ってもらって、新潟にも蒸溜酒という文化が根付くと嬉しいな。10年後にそういった光景が見られたら、本当に嬉しいですね。

山井社長から助言を頂いたように、今度は堂田社長が若い人に対して助言をする番になるという流れが、非常にいいですね。

『新潟イノベーションプログラム』も今年で6回目くらいになると思いますが、今は第四北越銀行さんからの支援で費用が1人20万円ほどで参加できるんですよね。ああいった事業創造プログラムに参加すると、たくさんの経営者さんたちと出会えて、すごく刺激を受けます。それも一つの手だと思いますし、僕自身もそのプログラムに参加して、100万円分の価値は十分に得られたと思っています。

最後に、次世代を担う若い人たちへのメッセージをお願いします。

繰り返しになりますが、迷ったときは、失敗してもいいから一度チャレンジしてみてほしいと思います。失敗しても、それが必ず糧になるし、何もしないよりは前に進んでいると思います。だから、迷ったときは思い切って進む方向を選んでみると、きっと先が見えてくるんじゃないかなと思います。

今は昔と違って、学生が起業したりベンチャーとして立ち上げたりするチャンスが増えてきています。僕らが大学を卒業した頃は、サラリーマンになるか公務員になるかの二択みたいな時代でしたから。だから、チャンスを活かして挑戦をして、活躍する人が一人でも増えたら嬉しいなと思っています。
そのためにネットワーク作りやアドバイスなど、僕らに少しでもサポートできることがあれば力になりたいと思っています。興味がある人は是非挑戦してみてください。

インタビュー:2024年7月

Information

株式会社新潟小規模蒸溜所 2019年「株式会社大谷」の工場敷地内に蒸溜所を建設。2021年より蒸溜を開始する。ウイスキーの世界的品評会『ワールドウイスキーアワード2023』にて、「ニューポットPeated」がNew Make &Young Spirits部門における【ワールドベスト/世界最高賞】を受賞。妙高市での新たな蒸溜所の整備も計画しており、新潟の風土を活かすこだわりのウイスキーの味は日本のみならず世界から注目を集めている。

〒950-0141 新潟市江南区亀田工業団地1-3-5
TEL : 025-382-0066(株式会社大谷内)
URL:https://kameda-distillery.com

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