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column 5

株式会社酒麺亭潤2020.10.15

挑戦と挫折を繰り返し
歩み続けるラーメン道。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、帰省自粛が呼びかけられた2020年春。新潟県燕市は、地元へ帰れない学生に、燕市産「コシヒカリ」やソウルフード「背脂ラーメン」などを送って支援した。本件の立役者でもあり、新潟を中心として国内に13店舗、国外に2店舗を展開する株式会社酒麺亭潤代表、松本社長に話を伺った。

松本 潤一(まつもと じゅんいち)1965年生まれ。燕市出身。学生時代には野球に打ち込み、甲子園出場を果たす。大学生の頃にプロへの道を断念し、料理人修業を開始。関西の中華料理店に4年、地元で叔父が営む大衆食堂に1年勤務し、1992年「酒麺亭 潤」を創業。以降、トライ&エラーを繰り返しながら「思いを伝えるラーメン」を追求し続ける。モットーは一球入魂ならぬ「一麺入魂」。

原動力は、人同士の心の繋がり

コロナ禍に際し、燕市出身の若者を
支援するに至ったきっかけを教えてください。

一番のきっかけは、東京で働いている私の子どもとの会話です。新型コロナウイルスの感染を広げないためとはいえ、我が子に対して「帰ってこないでくれ」と言わざるを得ない。そんな状況が本当に切なかったんです。同じように歯がゆい思いをしている親御さんはたくさんいると思いましたし、子ども達にしても「帰りたくても帰れない」状況って、本当に大変だろうなと思いまして。じゃあ、我々に何かできることはないだろうかと、ずっと考えていたんです。

ちょうどその頃、同じ気持ちで動いてくれていた地元の皆さんが、燕市と連携して米やマスクを送っていたんですね。その取り組みに協力を申し出る形で、支援物資第2弾として背脂ラーメンを届けることができました。それぞれの土地で頑張っている方々に、ちょっとでも故郷の味を思い出してもらえたなら嬉しいのですが。

燕三条のソウルフードである背脂ラーメン。
きっと、多くの人が勇気づけられたことと思います。

物資を届けることができた若い人たちから、たくさんのお声を頂きました。「燕で生まれ育って本当によかった」とか、「地元に帰ってこれる日が来たら、必ず食べに行きます」とか。そういうお声は、我々にとってお金にも代えがたい、本当に喜ばしいものです。

ラーメン屋というのは、地元の方々から大変お世話になってこそできる商売だと思っているんです。だからこそ、その方々が困ったときには「我々にはラーメンしかありませんが、ラーメンで恩返しをしたい」という思いがある。常にそのポリシーに従って行動してきたつもりです。

遠方への支援をする上で、技術的な問題はどうクリアされたのですか?

実は、10年ほど前から通信販売を細々とやっておりまして、配送のノウハウ自体は持っていました。「地元のラーメンが食べたい」という、全国の方々の数多くの意見を受けて始めた事業が、このたび役に立ったんです。それでも、しっかりとした設備があるわけではなかったので、社員はもちろん多くのパートさん・アルバイトさんに手伝ってもらいました。スープも麺もみんな手作業で冷凍し、人海戦術で対応しましたね。

また、中越地震や東日本大震災のときも、他のラーメン屋さんをはじめ、有志の皆さんに声をかけて炊き出しに行かせてもらった経験があるんです。そのとき、地域の皆さんに頂いた笑顔や「ありがとう」という感謝の言葉に、むしろ私たちが助けられ、勇気を頂きました。何か行動を起こす上でいつも原動力になるのは、そうした人同士の心の繋がりだと思っています。

挫折から立ち上がり、料理の道へ

松本社長の原点となるエピソードをお聞かせください。

随分昔の話になるんですが、私は野球をやっておりまして、高校時代は甲子園を目指しておりました。我々の恩師・鈴木監督は本当に厳しい方で、練習に明け暮れる日々も非常に過酷でしたが、本当に様々なことを学ぶことができました。

私には、これといって経営哲学のようなものはありません。ですが、株式会社酒麺亭潤には「チームとして動く」という考え方があり、そこには高校球児時代の教えが非常に大きく影響しています。

鈴木監督には「自分で限界を作るな」とよく言われました。どこかに限界を作った時点で、その先の可能性はゼロになると。また、監督は非常に人心掌握術に長けていて、人を褒めたり、一方で厳しく叱咤したりというバランスが非常に巧い方でした。

そういう、厳しいだけでも優しいだけでも成立しない、スタッフとの関係性をいつも意識して仕事をしています。監督とは、今でも毎月のようにお会いしたり、私の店に長岡からわざわざ来ていただいたり……。今でも私は監督の教え子なんです。

大学へ進学してからも、プロを目指して野球を続けていましたが、あるとき腰を壊してしまいまして。この先、自分がプロで活躍できる選手になれるか考えたとき、努力だけでは越えられない壁の存在を感じるようになりました。「なら、マネージャーになるか」という話も頂きましたが、その選択肢はどうしても受け入れられず……。

引退を決意したときは心も体も空っぽになってしまい、大学も一年で退学させてもらいました。野球を辞めたときが、人生で最大の挫折だったかもしれません。

その後、再起した松本社長が料理の道へと進むに至った理由は?

企業の採用試験を何社か受けましたが、全部落ちてしまったんです。私から野球を取ったら何も残らないんだと、愕然としていましたね。そうした中で考えたのは「体力だけはあるから、人の3倍働くことはできる」ということ。自分にできる形で努力をすれば、その成果が自分に返ってくる職に就こうと思いました。

自分にとって、それが飲食業だった。叔父が同じ仕事をしておりまして、小さい頃から働く姿を見ていましたし、そういう意味では身近な業界でした。ただ、同時に大変な部分もよく見えていたせいか、実のところはじめは乗り気ではなかったんですね。別の業種への就職に失敗する中で、少しずつ覚悟を決めたんです。

そんな私ですが、何か適性があったとするならば、それは鈴木監督の下で培った「当たり前」の感覚だと思っています。ちょっとやそっとの苦労はへっちゃらと言いますか、一生懸命やることも、寝る間を惜しんで技術を学ぶことも当たり前でした。それが「この道で生きていこう」と決めたことに向き合う際の、私の態度なんです。

「一麺入魂」。かつて野球に心血を注いだ松本社長らしいモットーだ。

躍進の裏に積み上げられたトライ&エラー

修業時代のエピソードをお伺いします。独立までにどのようなご経験を?

当初はイタリアン修業から始めました。今から35年ほど前、まだ新潟に「パスタ」という言葉がなかった時代です。縁あって就職したのは、神戸の山手にあるイタリアンレストラン。教会を改装した非常におしゃれなお店で、価格帯もお高め。芸能人の方もいらっしゃるような場所で、当時イタリアンと言えば、どこもそのような雰囲気でした。

今でこそカジュアルなお店も増えましたが、当時の私は到底イタリアンの道で独立はできそうにないと考えまして。「地元へ戻ったら食堂、ないしはラーメン屋としてやっていけそうだ」という目論見で、あるとき中華の道に転向したんです。

約5年の修業を経て「酒麺亭潤」創業。
独立当時のお気持ちをお聞かせください。

もちろん不安もありましたが、いざ開業の日にはもう「人の3倍働けばなんとかなるだろう」と、安易な気持ちでいたかもしれないです。あとは、色んな事を分かっているフリをしていましたね。ラーメンは本来すごく奥深いのに、その頃ってなんか変な自信みたいなものがありました。

開業後、記念すべき一人目のお客さまが来た日のことは、今でも鮮明に覚えています。それはもう緊張しましたね。私よりちょっと年上の、近所のお姉さんでした。注文されたメニューも、座った座席すら覚えています。

最近になって、久しぶりに修業時代の親方の元を訪ねたら、私が今こうして店をやれていることを、自分のことのように喜んでくれたんです。「ちゃんと一生懸命やれば、誰かが見ていてくれるんだ」と、親方の顔を見て実感しました。これまでやってきたことは、間違いじゃなかったのかなって。

今では国内に13店舗、国外に2店舗を展開する
一大ラーメングループですからね。

そのきっかけになったのは、池袋の東武百貨店で開催された「諸国麺遊記」というイベントです。知る人ぞ知る美味しいラーメン屋が集まる企画にお声がけいただき、一年間の東京出店に挑みました。

当時のラーメンブームも手伝って、連日すごい数の人が来たのですが、燕三条の太麺は茹で時間もかかるし、我々にとって完全にキャパオーバー。それでも、契約上の問題で勝手に閉めることはできません。ですから、売り上げこそ見たこともないような額になりましたが、クオリティの部分については常に納得のいかない毎日でした。

今にして思えば、いくらでも上手くやる余地はあったのですが、当時はもうお手上げ。早く終わってくれと思っていました。大勢のお客さまに来ていただいたし、テレビにもよく取り上げていただきましたが、それはもう本当にきつかった。

ただ、スープの冷凍技術をはじめ、今の通販事業やこのたびのコロナ禍支援にも繋がる経験ですから、東京進出はかけがえのない出来事だったと思います。もう一度同じようなことがあれば、絶対にチャレンジしたいですね。

今後の展望や目標はございますか?

全国のスタッフを幸せにしてあげたい。そのために、個で動くのではなく組織で考え、チームで動いていこうという話をよくしています。高校野球仕込みと先程お伝えしましたが、うちの社員教育は厳しい部類に入ると思います。スタッフが将来独立したとき、店を潰して路頭に迷うようなことがあってほしくありませんから。

「凡事徹底」。当たり前のことをしっかりとこなしていく。そして「失敗OK」。うちのスタッフでいるあいだは、何度間違ってもいい。ただ、チャレンジしなくなることは許さない。あとはやっぱり「限界を決めない」。この28年間、より美味しいラーメンを求めて少しずつ味を変化させてきました。現状に満足せず、これからも探求を続けていきたい。そんな目標をチーム一同が共有して、日々仕事をしています。

海外展開の状況についてお聞かせください。

現在出店中のドイツのほか、モスクワにも新たな出店が決まりました。新型コロナウイルスの影響で難航している部分も多いのですが、すでに機械の発注なども始まっています。「ラーメンを世界へ」を合言葉に、本物の味を追求しながら世界にラーメンを広めたいということで、今後も拡大を続けていきたいと思っています。

フランクフルト、ファールガッセ通りに面する「ラーメン潤Red」。

失敗こそが成功のプロローグ

新潟県民として、全国に誇れるソウルフードを挙げるとしたら?

まぁ、そう聞かれたら私は立場上ラーメンと答えなきゃいけませんね(笑)。新潟県は全国でも三本指に入るくらいのラーメン大国。県をまたいでいろんな店のラーメンを食べましたが、やはり新潟のラーメンのレベルは高いですよ。

ただ、こればっかりは職業病なんですが、ただ「美味しい」というより「何が入ってるんだろう」とか「どうしてこの製法なんだろう」みたいな部分が非常に気になってしまうんですね。かつて北前船がこの地に運び込んできた食文化とか、そういう歴史を紐解くように、美味しいものを訪ね歩くのが大好きなんです。

東京に現存する日本最古のお寿司屋さんへ足を運んで「これが300年前の味か…」なんて感動を覚えてみたり、あとはお団子。これも歴史の古いものが多いので、昔の文化を噛みしめるように食べてみたり……。個人的にはそういう「美味しさの背景にある、先人たちの営み」みたいなものを感じられるのが、食の醍醐味のひとつなのかなと感じています。

若年層の読者へ向けて、メッセージをお願いします。

まず言いたいのは、最近の若い人ってナイスじゃん! ということ。よく「近頃の若い者は…」なんて言われがちですけど、このたび学生たちにラーメンを配ってみて実感しました。お礼のメールを頂いたり、お手紙を頂いたり、本当にしっかりしていますよ。

それを前提に、若い人たちに伝えるべきことがあるとするなら、やっぱり「チャレンジを恐れない」ということでしょうか。「これは無理です」と決めつけるとき、あなたは自分で自分の可能性をゼロにしているんだと心得るべきです。

それは同時に「失敗を恐れない」ということ。あなたたちは何度失敗してもいい。何度も何度も失敗して、少しずつ勉強して前進して……という繰り返しが、いつの日か訪れる成功へのプロローグだと思っています。現実的に「これは無理そうだ」「あれはいいのかな」と頭で考え過ぎずに、まずはチャレンジしてみませんか。

あとは、世界に出ていってほしいですよね。もちろん新潟も、日本も素晴らしい場所です。外の世界の方が優れているなんて言うつもりは一切ないんですが、一度外に出てみると、今いる場所を客観的に見ることができるんですね。より一層故郷が好きになれるなずなので、ぜひ試してほしいです。

コロナ禍という、歴史上の重大事が起きている今こそ、我々の真価が問われると思っています。一度ゼロベースに戻して、いいものは伝統として残しつつも、全く新しい未知のチャレンジに挑む必要があります。

それは何も、若い人たちだけの役目ではない。私たち責任世代が、次の世代にちゃんとバトンを渡せるようにしなければなりません。私自身も、酒麺亭 潤も、まだまだトライ&エラーを続ける所存。これを読んでくださっている皆さんも、周りの大人にぶつかっていくような勢いで、チャレンジ精神をどうか大切にしてください。

インタビュー:2020年6月

Information

株式会社酒麺亭潤新潟県および隣県を中心に、東京都、ドイツのフランクフルトなどにラーメン店を展開。燕三条発祥の背脂ラーメンに加え、各店趣向を凝らしたメニューを提供する。通販・製麺請負事業なども手がけるほか、精力的な情報発信で経営ノウハウを広く共有している。ミシュランガイド新潟2020特別版に掲載。

〒959-1226 新潟県燕市小牧406-18
TEL:0256-47-0388
URL:http://www.ramenjun.co.jp/shop/

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