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column 32

株式会社ピーコック2024.07.16

惚れた仕事は天職。
いつもの美味しさを、お客様へ。

株式会社ピーコックは、元プロボクサーの先代が始めた1軒のたこ焼き屋が原点。いくつもの挑戦と失敗を経て、現在は冷凍たこ焼きのトップブランドのひとつに成長する。2代目社長を務める塚本さんは、徹底した品質管理、データに基づいた製品開発を学んだ経験から、国内外を問わず市場の開拓を進めている。父が遺してくれたもの、兄から受け継いだ思い、自身を支える原動力について、話していただきました。

塚本 功(つかもと いさお)1978年生まれ。長岡市出身。幼少期から「自由に、好きに生きなさい」と言われ、家業を継ぐ意志は一切持たずに育つ。一度工業系の企業に就職するも、ピーコック経営陣の意向を受け入社。ベトナム工場の責任者を任せられる。管理・営業・開発を兼務する頃には仕事に惚れ込み、「焼きたてよりも美味しい冷凍たこ焼き」の製造技術を目指す。先代(父)の他界を機に社長に就任。現在は国産の小豆を使ったファーストフード店の海外展開をめざしている。

1軒のたこ焼き屋が、全国展開の企業へ

ピーコックの歴史、沿革をお願いします。

弊社の創業者である父は浜松、母は豊橋の出身。ご縁があって、53年前の5月に長岡駅前の「長崎屋」でたこ焼き屋を開業しました。
長崎屋では7階の一角3坪の店で、焼きそばとたこ焼きを売っていたんですが、当時1食が15~20円の時代に、売り上げが月商400万円あったそうです。その噂を聞きつけたダイエーのバイヤーさんから、新店舗に出店してみないか、とオファーをいただきました。
そして、ダイエー新潟店さんに出店すると、同業のお店が年商1500万ぐらいのところを、弊社は年商2億という爆発的な売り上げを出しました。それがダイエーの創業者である中内 功(なかうち いさお)さんの目に留まり、一緒に全国に展開していこうということで、「ピーコック」が誕生。その後ダイエーさんの元で店舗を拡大し、成長してきた企業です。

中内さんとのやり取りの中で、思い入れのあるエピソードがあります。弊社はお持ち帰りの商品を提供していたんですが、「ここで食べていきたい」というお客様が沢山いらっしゃったんですよ。当時はゴザを敷いて食事するのは当たり前の時代でしたので、父は床にブルーシートを敷いて、そこに座って召し上がってもらうことにしたんです。
ところがある日、中内さんがその光景を見るなり、「お客様が床で食べるとは何事だ!」と大激怒されたそうです。そして、父の店と並んで営業していた数店に、「明日の朝までにここに客席を作りなさい」と指示を出し、そこから解体工事と設営を全部終わらせまして、翌日の朝8時までには客席を作ったそうです。実は、これが「フードコート」の発祥と言われています。
フードコートの発祥について、世間でほとんど話題にならないのは、もう当たり前のように暮らしに馴染んでいるからかもしれません。ですが、父や弊社にとっては宝物のような話です。

ところが、今から約35年前、アメリカから帰国された中内さんは、弊社のようにダイエーさんに出店している企業の社長を集め、「自分達はもう居なくなるから、あなたたちは一緒にいては危ない」、「これからはコンビニが日本で確実に流行る」って話をされたんです。そして中内さんは父に、「コンビニと付き合える業種を考えてみたらどうだ?」と指針を示してくださいました。
そこで父は、「手焼きのたこ焼きを冷凍事業で始めたい」ということで、長岡市の小国町に工場を作りました。最初の頃は理解を得られず、大変な苦労をしたと話していました。そんな中、日本生活協同組合連合会(生協)さんのプライベートブランドでたこ焼きをまかせていただいたことで軌道に乗ることができ、もう28年のお付き合いになります。
その後、カット蛸の生産を拡大するため、1996年にベトナムに工場を作りました。現在も弊社は、ベトナムと小国工場、2か所・2つの国で冷凍のたこ焼きを製造し、全国にお届けしています。

先代はどのようなきっかけで、たこ焼き屋を始められたのでしょうか。

うちの父、実はたこ焼き屋を始める前はプロのボクサーとしてアメリカに行っていて、ボクシングをしながらファーストフード店でアルバイトをしていたんですが、お客様がカウンターで注文して自ら商品を取りに行くという光景に、「すごい仕組みだな」と感銘を受けたそうです。
父はその後ボクシングで目に障害を負ってしまって、それを機に帰国します。これからどうしようって考えた時、どうしてもアメリカで見たファーストフード店の光景が忘れられなかったらしくて、ファーストフードの仕事をしようと思ったそうです。父は東海地方の出身なんですけど、そこの人達にとって、ファーストフードと言えば「たこ焼き」だったそうです。それで、たこ焼き屋を開業したと聞きました。

東海地方の方が、なぜ新潟の長岡に出店を?

当時のたこ焼き屋って家族経営が多く、企業での取り扱いがないと言われていたので、父は「企業という形態で、商業施設に入る最初のたこ焼き屋にする」、と意気込んでいました。
そこで一番重要な、どの商業施設に入るかを考えていた時です。私の祖父が「“長岡”の長崎屋という店舗に物件がある」と紹介を受けたそうです。静岡県民にとって長岡と言ったら、“伊豆長岡”のことです。それで父は即決し、頭金集めて入金したらなんと “新潟県長岡市”だった。1月、オープン準備の為に長岡市に来た父と母は、初めて雪を見て「大失敗した」と思ったそうです(笑)。
でも、そうやってご縁ができた土地で現在も商売を続けているのは、感慨深いです。

たこ焼きの次に始める「冷凍事業」について、教えてください。

中内さんのお話を受けてから父は「冷凍事業」に参入します。しかし当初は、メインバンクさんから融資を受けられないほど相手にされなくて、とにかく前途多難なスタートでした。
そんな逆風の中、父は大手の企業さんに「うちのたこ焼きの技術を全て公開するので、一緒にたこ焼きを全国に広げていただきたい」と声を掛けました。まず“冷凍たこ焼きを食べる事”を全国に広げないと先がない、という事を、ダイエーさんの中で成長・拡大してきた父は身をもって感じていたんですね。大阪の機械メーカーさんと共同で開発したたこ焼きのオートマシーンも、一切の特許を取らずに全て公開させていただいて。するとようやく、大手企業さんにも参入してもらえようになりました。
全国に冷凍たこ焼きの認知が拡がる一方、ライバルも増えてしまうんですが、父は昔から「オンリーワンではなくてナンバーワンを目指そう」という信念を持っていました。情報を公開することで全国に市場を拡大し、その中でナンバーワンを目指すんだ、と。
弊社の力だけでは、まずスーパーの冷食コーナーに商品を置いてもらうことも困難な状況でしたが、「オンリーワン」を取らなかったおかげで、冷凍業界にたこ焼きがすんなり入っていけました。ライバルも多くあって困難でしたが、その中で逆境にも負けない、強い力を得られました。

冷凍事業を始めるにあたり、小国町に工場を作られたそうですが、この土地を選ばれたのはなぜでしょうか?

一番の決め手は水です。小麦粉が溶けやすい、軟水系の水が豊富な土地を求めた結果ですね。時々「すごく良い材料を使っているんですよね?」と言われるんですが、水以外の原料ですと、皆様が召し上がるような、一般的なものを使っています。
弊社には「安くて早くてうまい」というモットーがあるので、お客様にとって、安心安全の中に、「買いやすい」商品であることを重視しています。安い原料でどれだけ美味しいものを作るか、に挑戦しているので、こだわっているのは「原料」ではなくて、「原料の管理」の方です。
もうひとつこだわりがあるとすれば、近隣の生産者さんを最優先にして野菜を買わせていただくとか、地元の皆さんからの理解と協力を得る、ということですね。

継がないはずだった家業、運命の転機

塚本社長は子供の頃から先代の背中を見られて、どんな風に思われていましたか。

私が子どもの頃、父は店舗数をどんどん増やしていた時期だったので、月に2日ぐらいしか会いませんでしたね。私には姉と兄、弟がいまして、会社は兄が継ぐので、私と弟は「会社にも入れないから、好きに生きなさい」って、はっきり言われていました。 ただ、父は釣りが好きだったので、突然家に帰って来ると、私と弟を連れて釣りに行くことがありました。その時に「今こうやって出店してるんだぞ」とか、「これから小国工場で冷凍たこ焼き始めるんだぞ」とか、会社の話をしてくれました。なので、全く興味がなかった訳じゃないんです。でも兄が継ぐって決まっていたようなものだったので、そこまででした。

ピーコックに入社された経緯は?

最初は工業系の仕事に就かせていただきました。ところがある日、私の所に母と当時の専務がやって来て、「社長は言いづらいだろうから私達から言うけど、会社来ない?」って言われたんです。急にどうしたのかと思ったら、ベトナムの工場で責任者をやって欲しい、ということでした。
話を聞くと、事業を拡大したものの管理が追いつかない、日本では当たり前の衛生管理も、ベトナムではそうはいかない。遂には日本の取引先から、「一族の強い意識のある方に管理してもらえないか」というオファーがあったそうです。当時留学中だった兄に相談したら、「入りなさい」って言ってもらえましたので、それが入社した流れですね。 その時兄は「絶対帰ってくる」、「弟も会社に入れる」という二つの約束をしてくれました。なので入社した時は、兄の下について兄を支えるという意識で、社長になる気持ちもなかったです。

ベトナム工場の責任者として管理関係を任されて、そして日本に戻られたんですね。

管理をして欲しいと言われていたベトナム工場では、単純に監視カメラの役目をやりました。「それじゃダメですよ」って指摘し続けたので落ち着きましたが、それは管理じゃないんですよ。「なんで違反をしてしまったのか」とか、「違反を起こさないためにどうしたらいいのか」を考えるのが管理なんです。特に一番大事だったのは、目に見えない異物、「菌」の管理がちゃんとできているか、ですね。原材料の野菜は生物(なまもの)ですから、持っている菌が非常に強いんです。

当時、ピーコックは「品質管理が弱すぎる」とお客様から指摘があるほどでした。そこで、生協さんが私に個別で品質管理の指導をしてくださったんです。管理とはこういうことだ、とイチから教えていただいたのが、私の修行時代の始まりですね。

日本に戻ってからは、どのような業務をされたのでしょうか?

品質管理と営業、あとは開発です。ここで私の大きなターニングポイントがありました。兄が亡くなってしまったんです。兄は約束通り留学先から帰国すると、ピーコックに入社して外食事業の責任者になり、私は小国とベトナムの管理と開発を任され、一緒に働き始めてから僅か2年ほどの出来事でした。
兄の他界後、父から正式に会社を継ぐ意思があるかと聞かれたんですが、その頃は、この仕事にすごく惚れちゃっていて、天性だなと思い始めていたので、「やりたい」って答えました。
すると父は「お前はこの3人に徹底的に付いて行け」と、ある3人を紹介してくれたんです。この方達はそれぞれ、日本を代表する企業で働く開発のエキスパートで、父は「この3人は自分よりもたこ焼きに精通し、科学的なデータを持っていて驚いた」と話してくれました。

「仕事に惚れた」というところが、素敵ですね。

本当に天性というか、天職でした。商品を作る原点に関わり、売る売らないの判断をさせてもらって。当時小国の工場で200~300人、ベトナムの工場でも1000人を超える社員が居たんですけど、こんな未熟者の私が出す指示を、皆さんちゃんと実行してくれるんです。そもそも自分の力だけではこんな事できないです。だから天職だなって思いました。

冷凍たこ焼きの挑戦「焼きたてを超える」

社長になられてから、特に力を注がれたものは何でしょう?

実は私たち、「冷凍のたこ焼きって、作りたてと比べてどうなの?」ということを議論したことがありませんでした。なぜかというと、「負けて当たり前」と思っていたから。ある時父に、商品の美味しさを決めるものを1つ上げるとしたら何かって聞いたら、「水。水の量がどれだけ残ってるかが勝負だ」と教えてくれました。確かに、たこ焼きってトロトロしてるのが美味しいですよね。この「トロトロ」という表現は間違いなく水分が残ってるという事なんです。
さっそく、焼きたてのたこ焼きの水分比率を測ると、大体70%でした。次に弊社の冷凍たこ焼きを測ると55%だったんです。もしかしたら、今までお客様はソースをかけてごまかしながら食べていたのかもしれない…これじゃダメだと思いました。
私は、冷凍でも水分比率が70%を超えるたこ焼きを開発したい、と父に提案しました。当時、核家族化など様々な要因から、「冷凍事業は間違いなく伸びる」って言われていましたので、作りたてを超える美味しさを開発できれば、たこ焼きは確実にお弁当のおかずにも、おやつにも、おつまみにもなる。これからは、「冷凍だから、焼きたてよりも美味しいよね」という時代にしないといけない、と話したんです。父も納得してくれて、そこから一気に商品の水分値にこだわる開発と、製造工程にシフトしていきました。
試行錯誤の中で、水分値を調整するには、2つの力が必要だということが分かりました。「加熱する力」と「冷ます力」です。焼く前の生地は20℃前後と冷たいので、焼き始めからいかに早く85℃以上まで加熱し、その85℃以上になったものをいかに早く10℃以下に冷ますか。この2点が、たこ焼きのおいしさの最大のポイントです。この技術の確立をもって、私の修行時代はゴールを迎えました。

今後の事業展開などありましたらお願いします。

日本のたこ焼きのシェアは、コロナ禍前までは国産が6割、海外産が4割でした。それが現在は円安で、海外産の減少が進んでいます。弊社でも、まるたこ焼きという製品をベトナムで作っていたんですが、円安とコロナ禍の影響で、価格帯がお客様のニーズからズレるという状況がずっと続いていました。
海外産が減った分を国内産で補いましょう、と急に言われても、弊社を含めて他の企業さんもキャパオーバーで作れないんですよね。なので、弊社は、コロナ禍の3年前に、まるたこ焼きを作れる大型の機械を小国工場に導入しました。このラインを活用することで、これまで海外製品で賄ってきたまるたこ焼きの市場を、内製化により取り戻して行く。これが今度の展開になります。

製品の製造が減ったベトナム工場の、今後の予定は?

私どもの小国工場では、製造中に割れた商品はバットに分けて、凍結前なら作業者は持って帰っていい、ということにしています。
ある日私が工場を見ていると、今川焼きとたい焼きだけ、割れた商品が0だったんです。社員にどうして割れた商品が残ってないのかを聞いたら、「ベトナムから来た実習生の子たちが全部食べるんです」って言うんですよ。次に彼らに理由を聞いたら、「こんなに美味しい小豆食べたことないです。本当に美味しいです」って言ってくれるんです。
それならばと、試しにベトナムで日本の小豆を炊いて「どら焼き」のテスト販売をしたところ、それが飛ぶように売れました。ベトナムではアニメの「ドラえもん」が大ヒットしているので、「ドラえもんが食べてるあれだ!」ってことで、ものすごく売れたんですよね。
これは新事業になると思い、ベトナムへ北海道から小豆の輸出をする許可を得まして、現地でどら焼きをはじめとした和風ファーストフードを展開していこうって決めています。

塚本社長は様々な情報のアンテナをお持ちのようですが、どのように情報収集されていますか?

私は異業種の方との交流も積極的にさせてもらいっています。その根底には、父が現役の頃、オーシャンシステムの樋口洋平さんと、角上魚類の柳下浩三さん、この方たちと「新潟県内を盛り上げよう」ということで作った、『昇洋(しょうよう)会』という会があります。昇洋会のネットワークは拡大し、いつしか他業種交流の場になりました。現在は「昇勝(しょうかつ)会」という名前に変え、先代たちが実践したように2代目や後継者がチームワークを組んで、アドバイスし合える関係を築き上げよう、をモットーに続けています。
ここで様々な業界の経営者の方と話していると気付くんですが、考え方の原点に「お客様のために」というのがあるんです。「お客様が原点」という考え方は業界限らず、一番大事だということが改めて分かります。それに、皆さん近いが故に、ちゃんと嫌味のない本心が伝わってくるんですよ。メーカーとして、自分たちは何をしなくちゃいけないのかという事を考えさせられ、ご指南をいただけることに、ものすごく感謝しています。

繋がる思い、続く絆

若い世代の人たちに向けて、アドバイスやメッセージをお願いいたします。

実は私、ベトナム事業の管理をしながら大きな回収事案を2回経験しています。一つはベトナム工場で、紅生姜に合成着色料をつけてしまったこと。もう一つは、予定菌数よりはるかに上回ってしまって、という…2回とも1億円に近い回収です。
紅生姜の件では、間違いなく弊社に非はなかったんですが、父に報告したら、「お前はベトナム工場の立ち上げに居たんだから、お前が悪い。現地工場は何ひとつ悪くない」。そして、謝罪に付いて行きますと言っても、「いい、一人で行く。男は一人で謝るもんだ」と言われました。父は「責任を人に押し付けるな。自分が関わったのであれば、責任は全部自分で取れ」という事を伝えたかったんです。弊社はベトナムと協力し、事業を30年以上続けているんですけど、そういった姿勢や心構えを全部教えてくれましたね。

こういう人との出会いって、待っていれば自然とできるものじゃないと思うんです。なので、とにかく若い子たちは、なんとなく「素敵だな」って輝いている人を見たら近づいて、話しかけてみて欲しいです。先輩たちは成功や挫折、復活やリカバリーという、良い経験を沢山していると思います。それは聞くだけでも十分に役に立つと思うので、ぜひ近づいて自分の糧にしていただきたいと思います。

また、私は仕事柄様々な国に行くので、つい比べてしまうんですが、日本人ほど礼儀正しい教育を受けた人達は居ないと思います。日本人は、海外では圧倒的なモラルと存在感があるんですよ。若い方は、「自分は礼儀正しさと、他人を思いやれる心を持っている」と自信を持ってください。これは本当に素晴らしい事です。
それでも自分のことが見えなくなったら、できるなら海外に行って、そこで十分に日本人としての自分の力を探してきてください。あなたに積極性がなくても、海外の人は何でも言ってきますし、何でも仕掛けてきます。でも、日本人は冷静に待って、聞いて、何をすべきかを考えて選べる、とても強い人達です。ぜひ若い皆さんは海外に挑戦してみてほしいです。

様々な苦難を乗り越えた塚本社長の強さは、いったいどこから来ているのでしょう?

今のピーコックが続いているのは、私の力だけじゃありません。父の人柄というか人徳が土台にあり、未だに魅力を放っているんです。先ほどの話とも繋がりますが、日本人の礼儀正しさとか強かさは「徳」でもあり、人を魅了するというか、そういう力を持っていると思うんですよね。だからこそ、大切にしたいと思っています。

父を慕ってくれる現在の会長さん達は、今でも私を気に掛けて「大丈夫か?」って聞いてくれるんですよ。その「大丈夫か」のたった一言が、どれだけ私の力となり、孤独じゃないと勇気づけられているか。こうやって人を思う、気遣う人間関係のありがたさも、新潟の人達に学ばせてもらっていますね。

あと、私はいわゆる“格上げ”という形で社長に就任しました。仕事に惚れたというのもありますが、今も昔も一番大事にしているのは「兄ならこういう会社にしたかっただろうな」という思いです。今では兄と父の思いを継いで、それを繋げていかなきゃいけないと思っています。私を取り巻く皆様に支えられていることを己の力に変え、これからも精進していこうと思います。

インタビュー:2024年5月

Information

株式会社ピーコック 1971年、長岡市「長崎屋」で、たこ焼き・焼そばの販売店として創業。ダイエー新潟店への出店を足がかりに店舗拡大を進め、たこ焼きの冷凍事業に参入。全国に「より美味しく、より安全な、つくりたての味をお届けする」を掲げ、成長と進化を続けている。
社名のピーコックは、「クジャクの羽根のように、秘められた大きな力を持つ」という意味と、“料理人”という意味の「コック」が含まれていることから名付けられた。

〒940-2192 新潟県長岡市新産3-2-1
TEL : 0258-21-4001(代)
URL:https://peacock-japan.co.jp/

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