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column 24

株式会社ホテル泉慶2023.02.15

小さな気づきの積み重ねを、
大きな循環にして。

新潟県を代表する温泉地である月岡温泉。その地で旅館の跡取りとして生まれた飯田社長は「生まれた時から月岡と旅館を見て育った」と話します。自分のベクトルは常に“社員第一優先”という考えに至ったプロセスと、平均年齢36歳という社員たちの感性を活かした経営について、伺いました。

飯田 武志(いいだ たけし)1982年生まれ。新発田市(旧豊浦町)出身。大学卒業後、通信系ベンチャー企業や外資系メーカー、有馬温泉のホテル勤務を経験。2010年から家業である旅館経営に携わり、2021年に代表取締役社長に就任。月岡温泉街の賑わいづくりに取り組む「合同会社ミライズ」の役員としても活動する。週に1~2回通う趣味のサウナは、水風呂の克服がきっかけ。

コロナ禍でもつらぬいた雇用維持。

御社の業務内容と沿革について簡単にご説明をお願いします。

創業は1967年でございます。この月岡温泉の地で客室8ルームの小さい旅館から創業させていただきまして、今年で56年目にあたる企業です。現在「白玉の湯 泉慶」、「白玉の湯 華鳳」そして「別邸 越の里」の3つの旅館を経営させていただいています。

実は当旅館は月岡温泉で一番新しい旅館なんですよ。最後発の旅館が約半世紀で3つの大型旅館を経営するに至ったというのは、かなり特殊な状況で成長した旅館ではないかなと思っております。先々代の創業者、私の祖父にあたる人物の豪儀な性格と、バブルの波に乗って大型化してきたのが、急成長の理由ですね。

新型コロナウイルス感染症の流行がはじまって3年程経ちますが、温泉地、観光地はどのような状況だったのでしょうか?

2020年の2月に第一報で中国の話が入った時に、正直私たちも国内旅行にここまで影響があるとは思ってなかったですね。それが5月に緊急事態宣言が出たら、もうその時点でお客様は全キャンセルに等しい。月岡温泉が開湯して107年目くらいなんですけど、初めてゴールデンウィークに全旅館全休するっていう決断を下すくらい、凄まじい影響がありましたね。

その中でスタッフにはどういったお声掛けとか、心配りをされたのでしょうか。

まず絶対に最優先したのは雇用維持。社員の雇用維持を100%にするっていうところですね。全国の旅館さんとかホテルさんの話を聞いてると、コロナになってものすごい勢いでリストラされているんですね。それは致し方ないと思います。でもうちの会社は絶対にリストラはしないということで、パート・アルバイトさん、もちろん正社員も含めて、誰一人人員整理を行っていません。

それに加え、雇用維持しても給料が減ってはどうしようもないので、まともに営業できてないけど、社員には必ず給料を100%出すことを徹底しました。それでも残業や休日出勤がないから減ってしまった分は、会社からボーナスや期末手当で必ず出しました。やっぱりそういう社員の雇用維持っていうところを私は絶対最優先と思って、コロナ禍ではずっと対応させていただきましたね。やっぱり安心させることが第一優先だったので。

安心できるからこそ、社員さんもサービスの提供や仕事の質に集中できたわけですね。

実は1か月とか2か月丸々休みの時、社員は何もしないでずっと家にいても給料が満額入ってくるんで、仕事の熱量っていうのは再開した時ちょっと低かったんですよ。

ただやっぱり、お客様が戻ってくるというところで、少しずつですけれども、お客様に来ていただける大切さっていうのに気がついたんですよね。

社員も自分たちが努力して良いサービスを提供しないと、コロナ禍で旅館として選ばれないっていうのを身をもって知ったんです。休んで給料もらって甘んじてる場合じゃ、将来ダメになるっていうのを社員一人ひとりが感じてくれたのは、コロナ禍になって一番の収穫かもしれないと思ってます。

「社長と女将」を見て培った、旅館業への思い。

飯田社長のお子さんの頃のお話をお聞きしたいのですが、幼い頃から旅館業は身近な存在だったのでしょうか?

「オギャー」って産まれた時から完全旅館でした。もう遊ぶところも旅館、生活するところも旅館、みたいな。旅館が生活の一部っていう意識だったので。いつから継ごうとか、いつから後継者として頑張ろうなんて、当たり前のことすぎて意識すらした事なかったぐらい。そんな幼少期でした。

 両親が共働きで、学校から帰っても鍵っ子みたいな感じで家には誰もいないので、もう旅館にいるしかないんですよ。だから大浴場で一人で遊んだり、月岡の地元のみんなでお風呂場で遊んだりだとか。そんな事ばっかりずっとやってました。

ご両親や経営の先輩から影響を受けた部分もあったのでしょうか。

父も母も家業として旅館をやってますので、正直私は「父と母」という印象じゃないんですよ。もう「社長と女将」っていう思いでずっと見てたんです。だから私、子供の時から家でも両親と喋る時は敬語でしたね。なおかつ両親は旅館にいるので、実は幼少の頃、親の顔を見るのは週に一回もなかったんですよ。もう全部お手伝いさんに育てられたんで、よくグレなかったなって思ってるぐらい(笑)。 そういった両親の仕事ぶりを見てるので、やっぱり旅館業ってのは大変。ただやったらやった見返りがあり、そして短期間に成長できる成長産業だっていう意識は、両親を見て感じていますね。

大学卒業後、違う業界に就職されたのは何か意図するものがあったのでしょうか?

全く意図はしなかったですけど、往々にして旅館とかホテル経営者って、その業界のことしか知らない人が多いんですよね。

私はいずれ継がなきゃいけないけど、多様な価値観だったり、その時代に先進的と言われてる事業や会社運営を見て、それをフィードバックするのが私の絶対やらなきゃいけない事だと思ってたので。普通に大学生として就職活動をして、普通に就職をしたという状況ですね。

最初はどういった会社に?

通信系のベンチャーで、今でいうUSENさんです。先進的でありながらベンチャーという気質も忘れない企業で、徹底的に叩き込んでもらいたかったという思いで、新卒で入らせていただきました。

実は第一希望は次に転職する「トリンプインターナショナルジャパン」だったんです。USENで働きながら「いずれ行きたいな」と思っていて、中途採用枠でトライしたところ今度は採っていただいて。 そこで思ったのが、USENで培ったものが、トリンプに入れるぐらいにレベルを上げてくれたんだってこと。USENにはベンチャーなりの厳しさとスピード感が物凄かったんですけど、そこでの経験が、行きたいと思ってた企業さんのレベルにまで自分を高めてくれたってことは、純粋にすごく嬉しかったですね。

遠回りしたかもしれないけど、希望通りの道に進めたと。

そうですね。トリンプでの経験が今の経営に一番生きてますからね。日本の企業で一年でやるようなことを一週間ぐらいでやってたんで、そのスピード感に自分を晒す、あとはそんな中で猛烈に働くんだけど、ノー残業デーでは絶対に定時にあがる。そうやってどう仕事を積み上げていくかのトレーニングは、日本の企業で味わえないことを経験させていただきました。この手法は自社の経営に生かさせていただいてます。

何年経ったら新潟に戻るとか、そういう約束はあったのでしょうか?

全くないですね。うちのおやじからは「もう好きなだけ行ってこい」って言われてて。ただ「やれることや手に入れたものがあるんだったら、そのタイミングで来ればいい」ということでした。

私も20代後半になるところだったので、そろそろ家業の経験も積まなきゃいけないということで、戻ることにしたんです。でもやっぱりいきなりは戻れないので、西日本の有馬温泉というところで一番のホテルに、一年ほど修行に行かせていただきました。そこでの経験を東日本のうちの会社に生かさせていただこうと、新潟に戻ってきたという感じですね。

旅館として一流、会社としてはド三流。

新潟に戻られたのは11年前だそうですが、そのときはどのように感じられましたか?

はっきり申し上げますと、こんな旧体制で硬直化している会社だとは全く思ってなかったです。

もちろん接客という旅館のレベルは素晴らしかったんですよ。旅館としてのレベルが高く、建物も日本で有数の施設だという意識はあったんですけど、会社内部に関しては本当に無駄・非効率のオンパレードだったんで。本当に私はその時「旅館として一流、会社としてはド三流」だと思いましたね。

そこからテコ入れがあり、必要なことをどんどん始められたと。

そうは言ってもいきなり何か変わるもんじゃないですよね。特に一番やらなきゃいけないのは社員の意識改革、会社改革自体なんですけど、1年、2年で出来るわけないんですよ。それやるためにもいろんなシステムだったりものごとを変えていって、やり始めて5年、6年目ぐらいに少しずつ成果が出てきたかな、というくらいの感触がありました。

具体的にはどんなことをされたのでしょうか?

まずは、「なぜ変えなきゃいけないのか」っていうのを本人たちに言いました。後は目に見えるようにしてやっていった感じです。

一番最初にやったのはコスト意識ですね。うちの会社は平然と初回見積もりをそのまま通してて、価格交渉ということを一切しなかったんですよ。ただ無いから仕入れる。もうどうしようもないと思いましたね。なので、まずは稟議システムから全部整理して、コスト意識を持ってもらうために徹底してやらせていただきました。

あと当時は同じタイミングで東日本大震災があって、あの時旅館業は相当ボロボロだったんですよ。もうこれじゃ絶対ダメだっていう大赤字を一回起こしたので、そこからまずは「人以外のリストラ」を徹底的にやったのが始まりです。

それで震災の時には大赤字だったのを、次の年では何とかV字で利益を出すことができました。ここまでの成果は1、2年かけてコスト整備を思いっきりやったからですかね。

旧態依然とした体制や経営の部分も見直されて、勤務体制といったところも徐々に。

社員コミュニケーション、人事の固定化から流動化、勤務環境ですね。残業とかシフト勤務時間も時代に合わせて徹底的に見直しをさせていただきました。

その人事によってやるべきことをやらない社員は配置転換をして別の業務にあたらせます。その代わりやる気のある社員は人事異動で抜擢していく。普通の企業様がやってることを当たり前のようにやっただけですかね。

社員さんにとってはやりがいも生まれ、きちんと評価をしてもらえることで、満足度もあがっていったわけですね。

そうですね。実際、人事考課制度っていうのも入れました。旅館で実力を測るのってすごく難しいので、それぞれの役割に応じた評価シートっていうのを作ったんです。300ぐらいの項目を元に、半年に一回評価をするシステムを入れて。そうすると社員はどの業務を頑張れば評価されるのか、会社が求めているものが目に見えてわかるんですよね。 「この項目は全く評価されてない」って悔しいかもしれないですけど、評価の可視化ができるので「評価されていないところを頑張って次は上げよう」って考えられるから、効果がありますよね。

ご自身の旅館がそんな状況だった一方で、月岡温泉自体はどのような感じだったんでしょうか?

いやぁ、「ゴーストタウンや…」と思いましたね(笑)。もうひどかったですよ。こんなだったかな?と思って。

そこで何かやろうという気持ちに。

もうどうしようもないと思ったのがきっかけで。やっぱりまずは自分たちで、もうその危機感を共有する人間達の自己資金で新しい会社を作って、街づくりを徹底的にやっていくベクトルに向けないと手遅れになるってことで、街づくりに注力するようにしました。

それが「合同会社ミライズ」なんですね。具体的にはどういったところから始めようとお考えでしたか?

空き店舗と空き家ですね。まずは潰れた店舗を一つ賃貸で借りて、そこをリノベーションして、とにかく一店舗目をやろうと思って「新潟地酒 premium SAKE 蔵KURA」を始めました。

この「蔵」をやることでメディアの皆さんにも、月岡温泉を扱っていただけるようになったので、私たちがこれから何をしなきゃいけないかの一つの指針になったかなと思いましたね。

平均一年に一店舗のペースで、現在9店舗も出店されてますね。

コロナだろうが何だろうが、絶対一年に一店舗新しいお店を生み出していくって、僕らミライズの決まり事としてやってます。

ただ、ミライズばかりがやっても限界が来ると思うんですけど、ミライズがそういう活動をしてくと、既存の月岡温泉の皆様が焦ってくるんですよね。そうするとリノベーションをミライズに相談して、お金の方は…、観光協会に新しく「街並み整備基金」っていうのを作らせましたので、そこの補助金を頼ってもらって。今はその循環が生まれてきてるところです。

温泉街のお店の方にも、自分たちでなんとかしなきゃという気持ちが生まれてきたんですね。

そうですね。すごくいい循環。私たちは正直ミライズで利益出すつもりは全くないんです。あくまで月岡温泉を再生させて、お客様に「月岡温泉って楽しいところだね」って認識していただければそれで十分。そういったお客様がミライズ以外の既存店舗に行ってお金を落としていただくと、月岡温泉全体の好循環がうまれる。

月岡温泉だけだと厳しいけど、外様(とざま)っていう外の人が出資して出店してくれると更に循環しますから、そういった動きを作り出すのもミライズの一つの役割かなと思ってます。

ここ数年の月岡温泉は、街を歩いている人が多くなったという気がします。

ありがたいです。でも、まだまだ足りないですね。私たち、これをやる前に九州の湯布院とか黒川温泉行ってきたんですよ。もうレベル1とレベル100ぐらいの差がありまして、今もまだ全然至ってないと思ってます。

けどやっぱり、湯布院や黒川温泉のような、自然や賑わいが調和されたような街づくりをこれからもやっていく。それでいて月岡温泉の特色ある大型旅館だったり、ちっちゃい旅館も共存できるような温泉街がこれからも作れたらなと。

こんなの普通、市長さんが言うことだと思うんですけど、最近は月岡温泉の住民がゲームのような感じで、街づくりをする意識を持ってくれているので、当事者意識が生まれてきて良かったなと思ってますね。

ベクトルを定め、積み重ねていく。

飯田社長は月岡の皆さんをはじめ、社員さんに対しても「気づき」や「当事者意識」を持たせることに長けていらっしゃると感じました。若いスタッフに対して、目配りや気配りで心掛けられていることはありますか?

一番意識してるのは、私が直接話をしないってことです。私が直接指示・指摘するってことは、上司や先輩の仕事を奪うことだからと思って。問題に気づくきっかけを与えるのが私の仕事なんで、何かあったときはすぐにLINEWORKSで上司達に投げかけます。その後指導を受けた若手社員は自分の糧になるし、問題に気づかなかった上司の学びにもなります。

あとは、昔の価値観のままの仕事をさせている時も必ず言います。若手社員だけでなく既存の社員も、これまでの仕事から要らないものを全部削いで、より良くしていけば、それが全社員の教育に繋がっていくと思うので。

若い社員も先輩にならって自分でやってみるとか、今度は自分自身が気づく側に回って、ここでも循環するわけですね。

その各々の気づきを、うちの会社では改善案・改善シートっていうので毎月やってます。私宛てにLINEで出してもらって、採用されると500円のクオカードがプレゼントされるってイベントで、出てきた案は全て掲示板に貼り出して、そこに採用・不採用って印鑑を私が押して、理由も必ずビッシリ書きます。

そうすると、社員は自分が声を上げたことに対して、会社がどういう判断で採用、不採用を決めたか分かるんですよね。なおかつ、クオカードが一枚もらえるんだったらどんどん出してみようと思う。そういう土壌を作ってあげるのも私の仕事かなと思ってます。

先輩社員さんと一緒になって会社を良くしていける雰囲気は、若い人にとってとてもやりがいがある環境だと思います。

コロナ禍もうちは毎年継続して新卒採用をやってたので、こういう業界に進みたい新卒生は全員うちに来るっていう時期がありました。まあ、それはちょっと特殊な状況だったんですけど、いい意味で新入社員のボトムアップができるんですよ。

特に古参の社員は、昔のやり方に慣れきってて同じ感覚でいちゃうんですけど、下から入ってきた人が新しい視点や仕組みで仕事をすると、ボトムアップの突き上げがすごいんですよ。下が優秀だと上はうかうかしていられませんしね。

そうやってボトムアップ型の新入社員がどんどん積み上がって、私が担当した新卒が今、係長とか課長クラスになっているんですね。その人間たちが会社の全オペレーションを担うようになってくると、私がやってきたことがもっと浸透していくのかなと思ってます。

若い人たちの存在が、揺るぎない土壌をつくるんですね。
これから新潟県や日本を背負っていく若い人たちにもメッセージをお願いします。

最近の若い人、うちの新入社員たちを見ても思うんですが…、みなさん色々と考えすぎるんですよ。何かをする前に調べる・考えることは悪いことじゃないですけど、調べたネットの結論とか先輩の言葉が事実だと思って、行動しないんですよ。そうじゃないよねって本当に思ってて。他人の批評やSNSを気にせず、考える前に動くっていうことを、このご時世だからこそ意識してやっていただきたい。

逆に、全力でがむしゃらにやれない人間は、自分が考えているような結果なんて得られないと思います。往々にして、成功だったり後悔のない生き方してる人って、ただ考えるとか調べるだけでは絶対満足してません。必ず自分でやって、経験した中で出た結果を糧としているからこそ、後悔のない生き方や仕事ができていると思います。

ぜひとも、「考える前にまずやれよ。そしてやった中で全力を尽くしてほしい。」これが若い人たちに伝えられるメッセージですね。

もし「お客様・社員・地域」に優先順位をつけるとしたら、どのようになりますか?

まず私は社員第一優先です。ただ、大切にするのは社員だけど、お金をいただくのはお客様なので、ビジネスとしてそこは分けますね。売り上げの元はお客様でいらっしゃるので、そのお客様へのサービスを徹底するのは当たり前。だけどお客様からいただいたお金の出口はどこなのかっていうと社員なんですよ。そうすると社員のために仕事してるようなもんじゃないですか。それは私正しいと思ってて。今のご質問ですと私のベクトルは社員の方に向いています。

社員の待遇改善だったり、いい生活をさせてあげるのが私の仕事だと思ってるので、社員はお客様の方を向いて全力を尽くしなさいと。そのために裏方だったり社員の生活の責任を持つのは、社長である私の仕事だと思っておりますので。

今後やってみたいことや夢などはございますか?

よくそういうご質問いただくんですけど、お恥ずかしながら夢がない人間で(笑)。というのも、夢というか目標は1年~4年の小中期の目標を細かくいっぱい作って、それらに全力をかけるタイプなんですよ。

なので短期的な目標や、中長期的な問題を解決するための施策を、単年度で追いかけていくんですね。その時代に合わせた目標を設定してリノベーションしていった結果が、お客様に常に評価される旅館なので。

これだけ1年単位で変わっていく時代ですから、10年後の目標って変わってしまうと思うんですよ。だから、逆に大きな目標っていうのは持たないようにしてます。

ただあえて言うんだったら、社員の待遇を一部上場企業の大企業並みまで引き上げてあげたい。これが今私の一番の目標ですね。

最後に、旅館業の魅力ってどんなところでしょうか。

やっぱり一番は「人を相手にしてること」だと思うんですよね。B to Cってお客様の声だったりお客様の評価、そういったものがダイレクトにもらえる業界なので。しかも自分たちの働きぶりや接客について、やったらやっただけ評価してもらえるのって、サービス業、特に旅館業以外ほとんどないと思いますので、やっぱりそれは旅館業の一番の魅力ではないかなと思いますね。

インタビュー:2022年12月

Information

株式会社ホテル泉慶 昭和42年(1967)創業。月岡温泉を代表する旅館「白玉の湯 泉慶」、「白玉の湯 華鳳」、「別邸 越の里」を運営。エメラルドグリーン色の湯は全国随一の硫黄含有量を誇り、白玉のようになめらかな素肌を実感できると評判。施設・料理・サービス全てに於いて「期待を上回るおもてなし」を実践し、お客様をお迎えする。

〒959-2395 新潟県新発田市月岡温泉453番地
TEL:0254-32-2969
URL:https://www.senkei.com/

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