株式会社髙儀2026.03.19
信用を軸に、困りごとに応える。
聞く力が育てた160年企業の現在地
「決めるのは、その時のフィーリングかなあ」
そう笑うのは、創業160年を迎えた老舗企業髙儀の8代目髙橋社長。鋸鍛冶屋として始まり、今では専門商社とメーカーの機能を併せ持つ独自のポジションを築いている。戦後の倒産危機を支えたのは、資産ではなく、長年培ってきた“信用”。その教訓は、いまも経営の土台にある。
徹底して顧客の声を聞き、ときに利益よりも信用を選ぶ、その軸は何か。200年企業を見据える現在地に迫る。
髙橋 竜也(たかはし たつや)1974年、新潟県三条市生まれ。1999年に商社「加商」へ入社。海外メーカーの代理店営業として経験を積む。2003年、髙儀に入社。2017年、代表取締役社長に就任した。大学時代にバックパッカーとして世界を歩き、インドでの“天国と地獄みたいな出会い”が、今も経営視点の原点になっている。通勤の長距離運転ではオーディオブックとポッドキャストが相棒。
資産は消えても、信用は残る。
まず、創業から現在までの歩み、そして転機になった出来事を教えてください。
当社は江戸末期の1866年(慶応2年)に現在の三条市で創業しました。創業当初は鋸(のこぎり)鍛冶屋として、自分たちが作った鋸を地域の市場に持っていって、販売していました。
近隣にノミやカンナといった大工道具を作る鍛冶仲間がいたのですが、しばらくして彼らから、「鋸を売りに行くなら、一緒に俺たちの商品も売ってきてくんねか」と頼まれたんです。その出来事がきっかけで、問屋業としての役割が少しずつ広がっていきました。
その後、日本全国、アジアへも販路を広げました。太平洋戦争下では当社も軍の指定工場となり、貴重だった鉄などの物資供給を受けたり、販路を確保したりして、なんとか事業を継続してきました。
戦後には倒産の危機もありましたが、高度経済成長期にはGMSやホームセンターへ販路を広げ、再び成長の機会を得ました。
昨今ではネット販売への参入も積極的に行っています。時代に合わせて売り方を変えながら、事業をつないできました。

「頼まれて一緒に売る」ことをきっかけに、問屋としての役割が始まったんですね。
そうですね。“頼まれ事を引き受けた延長線上に今がある”、という感覚ですね。
「倒産の危機もあった」とは、具体的にどんな状況だったんですか。
太平洋戦争が終わると、日本は敗戦していますから、国にお金がありません。だから、すごく高い税金、相続税を課す時期があったんです。
ちょうどその時期に、2代目が亡くなってしまいました。すると、その高い相続税を払わないといけない。しかも現金で。
手持ちの現金だけでは払い切れないので、一旦会社を処分・売却して、店を畳まなければいけない、というところまで追い込まれました。
店を畳もうと検討してる時に、当時懇意にしていただいていた仕入れ先である職人さんたちが、噂を聞きつけて当社に来てくれたんです。「髙儀が店を畳むと聞いたんだけど、その話は本当なのか」と。
「こういう事情があって店をたたもうと考えている」とお話ししたところ、その職人さんたちは、「商売をやめるな」「俺たちが必要なだけの商品を入れてやる。代金の支払いは払えるようになってからでいい」と言ってくださったんです。その申し出を受け、店を畳まずに済みました。
その局面で職人さんたちが支えてくれたのは、長年の関係性があったからだと思います。その出来事を経て、企業の価値観はどう形づくられていったのでしょう。
このことから、我々は胸に刻んだことがあります。
例えば、持ってるお金とか土地とか、資産や商品みたいなものは、戦争だったり、何かの法律の改正とか、そんなことで一気に無くなる可能性があるんだ、ということ。
でも、それまで培ってきた取引先との信頼、信用関係っていうのはなくならない。いざという時本当に助けてくれるのは、そういったものだと学びました。
その価値観は、いまも社内で語られているものでしょうか。
はい。会社の大事な価値として、今もずっと伝え続けています。
ビジネスより先に育った、「ものの見方」
子どもの頃、髙儀の社長になると想像していましたか。
いえ、なかったですね(笑)。
私の父は髙儀で働いていましたが、継いだのは本家の叔父です。だから私の中で髙儀は、“本家のおじさんがやってる会社”というイメージでした。
子供の頃からそんな印象でしたから、私も髙儀を「継ぐ」なんて意識は全くなかったですね。普通に進学して、就職しました。
それが、入社4年目の時に父から連絡があったんです、「髙儀に入らないか」と。その流れで入社させていただくことになりました。

髙儀入社前の数年間は、どんな仕事をされていたんでしょう。お父様から連絡がなければ、どのようなキャリアだったと思いますか。
大学を卒業してからの4年間は「加商」という商社(現在の豊田通商)の営業マンをしていました。
髙儀は親戚の会社ですから「いずれはお手伝いできることがあれば力になりたい」という想いはありましたね。でも、「社長として事業を継ぐぞ」みたいな意識は、その当時は全くありませんでした。
髙儀に入社し、最初に配属された東京営業所と、新潟に戻られた時の印象はどんなものでしたか。
ビルも古くて、ドアを開けると室内がタバコの煙でモクモクとしてました。机の上に刑事ドラマみたいなタバコの山ができていて、なかなかこう…「古い体質の会社なのかな」って思いましたね。
新潟の会社の印象は…どうなんだろうな。ここ、西蒲区大原の建屋に配属になったんですけど、うん、特に印象はないですね(笑)。
今につながっているような、人生のターニングポイントはありましたか。
ターニングポイントって言えるかわからないですけど、大学生時代にバックパッカーで世界を旅したことですかね。
大学3年になった時に「このまま卒業して就職か」と思って、自分を振り返ってみたんです。そしたら「なんもやってこなかったな」って思いが湧いてきたんですよね。色々考えた結果、大学を1年休学させてもらおうと決心しました。
半年間はアルバイトをして資金を作り、残りの半年間は旅に出ました。東南アジアの国が多くて、楽しいことも大変なこともありましたが、「どこでもなんとか生きていけるな」という、変な自信がつきましたね。
あと、海外を見ることによって、「やっぱ日本っていい国なんだな」って、強く感じることができました。“外を見ることで自分を知る”その実感が大きかったですね。これがターニングポイントのひとつかなと思います。いい経験でした。
旅の中で、特に印象に残っている国や出来事があれば教えてください。
印象深かった国は、…インドですかね。
首都のニューデリーに入った時に、たまたまインド人の方と仲良くなったんです。日本語を勉強してる方で、お家に1週間ぐらい泊めてもらいました。そうやって交流ができた体験から、「インド人ってすごくいい人なんだな」と思ったんです。
でもその後、インド国内の別の地域に移動してバスを降りた途端…、今度は怖いインド人7~8名に囲まれたんですよ。そのギャップがすごく面白かったです(笑)。

その旅の経験は、いまの仕事の向き合い方や、経営の意思決定にどう活きていると思いますか。
外から見て「自分の立場が分かる」とか、「自分が今いる環境って当然じゃないんだ」って気付く事だと思うんです。それを知ることができた経験は、今でもすごく影響を受けていると思います。
そのおかげで、恵まれた環境だと感じる、何事にも感謝するという、ものの見方ができましたね。そういう視点は人生の選択にも影響しているし、仕事においてもつながっているんじゃないかと思います。
「困ったら髙儀に相談だ」になるまで。
「外を見ることで自分を知る」という視点で見たときに、髙儀さんの“今も変わらない強み”ってどこにあると思いますか。
今も変わらない強みというと、「専門商社の機能」と、「メーカーの機能」を持っているところだと思います。
専門商社としては約10万点以上の商品を扱い、要望以上のものをお届けする体制があります。
一方で、メーカーとしては今も鋸の工場を持っているので、そこで鋸や刃物を製造。協力工場さんと一緒に、我々が企画・デザインしたものを商品化して、自社ブランドとして展開することもできる。このふたつの機能が強みです。
そしてその土台となっているものが、長年培ってきた取引先との重層的なネットワークだと考えてます。
強みを支えるものとして、培ってきた“信用”があると思います。信用とは、具体的にどう積み上がっていくものなんでしょう。
これは単に仲がいいとか、付き合いが長いって話ではないんですよね。私たちは160年かけて、仕入れ先や販売先から、「何か困ったことがあったら髙儀に相談してみよう」と思ってもらえる関係性を築いてきました。
しかも、その関係は表面的なものではなく、担当者同士だけでなく経営者同士も、親の代、さらにその前の代からつながってきた積み重ねです。今はそれが重層的なネットワークになっている。
このネットワークが土台にあるからこそ、当社の強さが生きるし、新たなビジネスの機会を引き寄せ、価値を生み出してきました。だからこそ、この信用と関係性は、私たちの大切な経営資産だと思っています。

“重層的な関係性”って、燕三条という地域性が土台になっている部分も大きいと思います。
そうですね。私たちはこの土地に支えられてきた部分が大きいですね。
髙儀は元々、この地域の商品を県外へ売ることで成り立ってきた会社ですので、むしろそこが1番大きいところです。
今でも仕入れ金額のうち約4割は、燕三条を中心とした新潟県内企業からの商品です。一方で売上げは、8割から9割を県外で得ています。こうやって地域の資産を活用させてもらう事業の構造自体が、結果として地域貢献につながる。そういう思いでビジネスを行っています。
ものづくりの土地だからこそ、グッドデザイン賞の受賞は象徴的ですね。
以前から工具のデザインには力を入れてきたんですけど、3年ほど前から、賞にエントリーするようにしました。
やっぱりかっこいい工具って、持つだけでテンションが上がるんですよね。「これを使って仕事したいな」、「何かを作りたいな」って思わせる力が、工具から伝わってくるんだと思います。だから、これからもデザイン的な良さにも力を入れていきたいと考えています。
受賞された製品の評価されたポイントや、こだわりを教えてください。
電動工具の「アースマン」シリーズは、コンパクトであることと、見た目のかっこよさも特徴ですが、握る部分とか細部にも、すごくこだわりを持って作っています。
道具と人間の接点っていうのは、「手の握りの部分」なんです。ここの握りやすさ、触れた時の感触、ボタンの押しやすさ、そういった接点となる部分を、魅力的なデザインに落とし込む。そこに力を入れて作った商品です。

一方で、以前はブランドが多く存在し、整理・統合に踏み切ったと伺いました。どのような経緯があったのでしょう。
確かに、我々は今まで、自社のプライベートブランドをいくつも作ってきました。でもそれらは「当社都合のブランド」だったので、気がついたら統一もされず、バラバラになっていたんです。
いくつもブランドがあるのに、お客様には意味とか狙いが、一切伝わってなかったんですよね。ブランドといっても、僕らの事業の区分けみたいになっていた。
なので、これからは「お客様目線でブランドを再設計しよう」と方針を定めました。まとめられるものはまとめ、それを今度こそ、しっかりとお客様に訴求していこうという考えから、ブランドの統合を進めました。
整理・統合したことで、社内外ではどんな変化が起きましたか。
ブランドのコンセプトをしっかりと定義して作ってますので、そぐわないものは作らないとか、でも違うブランドなら当てはまるんじゃないかとか、そういった見直しを行っています。
ブランドのコンセプトは「作る側」と、「商品を伝える側」の両方が理解していますので、現在はお客様にも伝わっていると思います。
外の声を「取り込む文化」が根づいている印象です。
創業当時のエピソードからそうなんですけど、我々は「お客様の声をすごく聞く」企業なんですよね、むしろ聞きすぎるぐらい。元々、外からの意見を取り入れやすい社風はあると思います。
だから、ブランドの取捨選択や、ものづくりの精度を上げる、物流機能を強化するといった、構造的なことにも活かしていくことができたのだと思います。
聞きすぎると“御用聞き”になってしまうリスクもありますよね。それでも「聞く方がうまくいく」と判断されるのはなぜでしょう。
確かに、外の意見を取り入れることにリスクはあります。
ただ、我々の想いを優先して進めると、うまくいかないことが多かったんですよ。
だから「言われたらまずやってみる」って精神が、機能を強化したり、会社の力を強くしてきたという実感があります。そんな積み重ねがあるので、「やっぱりお客様の声は大事だな」と、感じますね。
その延長線上で、「防災」という新しい領域にも取り組まれています。なぜ今、防災なのでしょう。
我々が取り扱う工具はどういうシーンで使われるか、と考えると、まずは職人さん達の仕事道具。あとは、一般の方々の「家のドアの調子が悪いから直そう」といった、困った時に必要とされる道具なんだと思います。
その「お客様が困る時」という部分を深掘りしたとき、どんなシーンがあるだろうって考えたら、「あ、防災用品だ」と。そこから防災分野に取り組み始めました。
防災は“売れる時期が読めない商材”でもあります。
おっしゃるとおり、ビジネスの観点から言うと、防災って結構難しいです。
災害や避難といった状況が来なかったり、危機感が高まらなければ動かない商材ですから。本当に回転率だけを考えたら、いいビジネスではないかもしれません。 でも、備えることそのものが、人々の安心・安全への貢献になる。「たとえ動かなくても、利益率が高くなくても、それは引き受けよう」と、そういう気持ちで取り組んでいます。
既存と挑戦、ふたつの力が200年をつくる。
影響を受けた経営者はいらっしゃいますか。
影響を受けた特定の人って、いないんですよね。
決めるのも、私はその時のフィーリングだからなあ(笑)。

組織を率いるトップやリーダーに一番必要だと思うものは何でしょう。
「仕事を楽しめる力」じゃないでしょうか。
変化とか自分の成長、人とのつながり、関わり合いを楽しもうとする心持ち…これはトップやリーダーだけじゃなくて、一緒に働く従業員たち全員にいえることだと思います。
辛いことがあっても、その辛いって感覚は自分が認知してるだけなんですよ。
苦しくて辛く感じる状況であっても、“自分のためになる”とか、“誰かが楽になる”とか、そうやって、意識を切り替えられることが大切なんじゃないかと思います。
企業の成長を考える上で、社長が“いちばん大事にしたい経営の考え方”とは。
会社の発展を考えていくとき「両利きの経営」という言葉があります。
既存ビジネスの深化と、新規ビジネスの探索という、二つの分野に取り組む必要があると思っています。
既存ビジネスの方は、今我々がやってる工具を中心とした市場です。ここは古い業界なんですけど、我々がやれていないこと、もっとお客様のためにやれること、仕入れ先のためにできることが、まだまだあると思ってます。
新規事業の探索については、これまでにも色々挑戦してきましたし、当然うまくいかなかったこともありました。でも、失敗は失敗と受け止めるけど、打席には立ち続ける。そうしない限り、ヒットもホームランも打てませんからね。
これからも「既存」と「新規」を回し続けることが、継続的な発展につながると考えています。
その考えをベースに、これから髙儀さんは、何を強化して、どのように発展していくのでしょう。
事業の目的という意味は一貫しています。「社会、地域、取引先様、それから社員の幸せ」というのが会社の目的です。そして会社の経営というのは、そのための手段であるという風に考えています。
これだけ聞くと綺麗事のように聞こえますよね。けど当然、我々には「会社を存続させたい」という、企業としての生存欲求が根底にあります。
その手段として、「社会、地域、取引先、社員の幸せ」があるんだと思います。
この目的と手段が表裏一体となって、循環してるというイメージが、この仕事の大きな価値だなと思いますので、その価値をさらに高めるような事業を発展させていきたいですね。
次世代に向けて、社長が伝えたいことをお願いします。
私が前職に勤めた1~2年目の時です。先輩社員から「若いっていうのはそれだけで価値があるんだよ」って言われました。
その時は素直に「若いとエネルギーがある」って意味だと思っていたんです。でも最近、「若さの価値っていうのは、未来にある圧倒的に長い時間のことなんじゃないか」と考えるようになりました。
時間があるってことは、失敗しても取り返しが効くということです。若い頃の失敗は、いくらでもやり直せます。
だから私は入社式の時、新入社員の方々に「私の立場で重大な失敗をするとやばいけど、新入社員の皆さんがする失敗は、先輩や上司がいくらでも取り返してくれる。だから失敗して、いい経験を学んでください」とお話するんですよ。
それからもうひとつは、投資と同じ考え方です。若い時に得た知識とかスキル、それから失敗も含めた経験、あとは人間関係というものは、これからの長い時間それらを活用していけるし、得たものはこれからも成長し続けて、より大きな価値を生むと思うんです。
それらは簡単にはなくならない。いざという時に、自分を助けてくれる力になるはずです。
最後に、社長自身の夢や、挑戦したいことを教えてください。
新しいことを始めるって訳じゃないんですけど、私は人生の目標にしていることがひとつあります。髙儀は160周年を迎えましたが、「200年続く会社にしたい」というのが、私の目的であり、使命だと思ってます。
髙儀が200周年を迎える時って、私は92歳になってるんです。当然、もう現役は退いてるはずだし、してないといけないんですけど。車椅子に乗って、200周年記念をお祝いしたいなっていうのが、私が考えてる夢なんです。
…92歳で現役だったら本当にすごいけど、そうだとしたらダメな会社になりますね(笑)。

インタビュー:2026年1月
Information
株式会社髙儀1866年(慶応2年)、現在の三条市で鋸鍛冶屋として創業。職人仲間からの「一緒に売ってほしい」という頼まれ事をきっかけに、問屋機能を拡大。その後、メーカーでありながら専門商社機能も併せ持つ企業へと発展した。現在は約10万点以上の商品を扱い、自社製造と商品企画を強みに事業を展開。燕三条のものづくりを全国へ届け続けている。
〒955-8655 新潟県三条市塚野目2341-1
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