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column 20

株式会社北辰館 ついしん手紙2022.09.01

人と出会い、言葉をもらって、
今の自分が作られた。

誰でも無理をせず、けれどしっかりとした日本料理を食べていただきたいという「ついしん手紙」の願い。代表兼料理長である廣岡代表は「下手くそなのが嫌」との性分からか、学びたいことがあるとその都度修行をしてきた過去を持つ。今の自分を作ってくれたという方々の話をベースに現在の心境や仕事への姿勢を伺った。

廣岡 雅志(ひろおかまさし)1977年生まれ。新発田市出身。同市の老舗割烹である「北辰館」の9代目。幼少期から家業を継ぐ事を意識し始める。大学卒業と同時に修行を開始し、新潟や東京の料理店で腕を磨く。京都のくずし割烹の名店 枝魯枝魯の姉妹店(当時)、東京・原宿の「上ル下ル西入ル東入ル」で料理長を任され、30歳を機に退職して家業の北辰館に入る。2010年に独立して「手紙」をオープン。2017年、移転をきっかけに「ついしん手紙」としてリニューアルオープン。

鍋磨きで上等だろ

ご実家である新発田の料亭「北辰館」について教えてください。

江戸時代の後期からこの新発田でやらせていただいています。昔は大地主が何人かいらして、明治から昭和初期にかけては陸軍の16連隊が配置されて、その旦那衆に支えられた文化もあります。昭和50年(1975)に今の駅前に移転しまして。冠婚葬祭で使っていただきましたが、だんだんと式場や斎場が増えて需要が減って。父(現社長)が「もう1回、料理屋さんに原点回帰しよう」と宴会を中心に使っていただいてきました。

 新発田には以前は芸者さんもいらして。いつ頃かな。僕が30歳まで東京で修行して帰ってきて、最後のおひとりが辞められる席に僕と社長が呼ばれたんですよね。その方が涙ながらに唄を唄われて。僕も涙が出ちゃって。パッと見たら社長も泣いていて。それからは「芸者さんがいなくなって宴会の形が変わった」と社長も言っていました。

 最近はコロナでその宴会も激減して。斜陽産業といいますか、恐竜みたいな職業なのは重々承知していまして、そのために何とかしようと思ったところにコロナって隕石が降って。これでもう本当に恐竜のように全滅か?だったんですが、ありがたいことに高価格帯のお弁当類の需要が増えまして僕たちみたいな料理屋が支えられた。昔から法事は割といいお値段でやるのがこの辺の風習ですけれど、どこかで皆さん「料理屋を助けよう」という気持ちがあったと思うんです。

どんな子どもでしたか?

家が忙しいので家族団らんなんて知らない子どもでした。お店には出ちゃいけないんですけど…やっぱり遊んで欲しくて、両親よりは芸者さんにかまってもらって育ったような。板前さんの休憩中にキャッチボールをしてもらったり。楽しかった記憶がありますね。幼稚園の時に将来の夢を書くじゃないですか。大人になって見たら「レストランの経営者」って。幼稚園で「経営者」って言葉を知ってたのがまず驚きだったんですけれど。その頃から漠然と想像していたのかも。料理屋のせがれだって、自然と自分の中に芽生えていたのかもしれないですね。

料理の道に進んだタイミングは?

父から「修行に行きなさい」と言われていたので。家に入らなければいけないのは分かっていましたけれど、高校を出てすぐ修行っていうのが嫌で大学に行かせていただいて。それから「いざ、修行!」となって。でももうず〜っと、それこそ5歳で「レストランの経営者」って書いた頃から「北辰館に入るんだろうな」と。そこから脱線しようと思ったことはないですよね。料理はもともと好きだったので抵抗なくすんなり修行に入った感じでしょうか。

新潟市での修業時代は?

最初は古町の「雪花」さんで、それからすぐに料理長だった星さんの独立にともない僕が付いて行って、新潟駅南の「あをせ」のオープンに携わらせていただいたのですが、とにかくまぁ…鍋を磨いてたって記憶ですね。1回だけ母親に「辞めたい」って漏らしたんです。周りは達者になっていきますし、居酒屋さんに勤めた仲間も「魚おろしてるぜ。刺身やらせてもらってるぜ」って。

「俺何やってんだろ、毎日鍋磨いて…」みたいな?でも母親は「鍋磨きで上等だろ。3年鍋磨いてそれでいいじゃない」と。先輩からも「最初の3年で基礎をしっかりやれば、その後はどんどん抜いていけるよ。基礎をしっかりできなかった子はその後何年たっても伸びなくなるよ」って言われたんですよ。

数年後、「鍋磨いてて良かったな…」って思いましたね。磨くだけじゃなくて、その中でいろんな事が見えるので。人より早く上達したり、成功したりすれば、それに越した事はないと思うんですけれど。そうじゃなくても、遠回りしても、人よりいっぱい鍋磨いても、それがいつか違う形になって自分に返ってくるっていうのはきっとあるんだろうな。

あんたの接客は全然面白くない

また東京に出て修行しようと思ったのはなぜ?

大学で上京して新潟に帰る時に「東京に絶対戻って働きたい」って思いが強くあって。逃げずに3年しっかり新潟でやった頃にちょうど原宿の「上ル下ル西入ル東入ル」というお店をテレビや雑誌で見て、「かっこいいな。こういう店で働きたいな」と漠然と思っていましたら、後に「手紙」や「ついしん手紙」の店をデザインをしてくれた同級生の…青木って言うんですけど、お寺の子なんですよ。将来はお坊さんになると分かっているのに建築デザインを勉強したいって京都にいまして。

青木に「上ル下ル西入ル東入ルって店があるんだけどさ、こういうかっこいい店知らない?」って聞いたら「その店を俺がやった」って。えー!?ってなるじゃないですか。そこからとんとん拍子に上ル下ルをプロデュースした京都のお店「枝魯枝魯(ぎろぎろ)」の大将の枝國栄一さんを紹介していただいて。「くずし懐石」で一世を風靡していたお店で13席が3回転4回転するのが当たり前。最後の回転が夜の11時からでもお客様が来るんですよ。京都でもよかったのですが「東京に人がいないから行ってみる?」で上ル下ルに入れたという。

導かれているような感じですね。新潟の修行との違いは?

すべてが違いましたよね。上ル下ルは内装も洞窟をイメージした鍾乳洞みたいなめちゃくちゃかっこいいお店で。花板の隣にはバーテンダーさんがいてカクテルもご用意していて。新潟の時には仲間と仕事したって記憶がないんですよ。親方がいて、先輩がいて、僕、みたいな形だったので。けれど東京は職場の仲間ができて楽しくてしょうがなかったですね。

カクテルも好きでお酒もちゃんと学びたいとバーテンダーさんの真似してシェーカーを振ってみたり。原宿という東京のど真ん中でやってたので、東京に出て1週目の週末に社長から「パーティーやるから来い」と呼ばれるといつもテレビで見ている方達が横で踊ってて。これが東京か〜という「ザ・東京」に自分が入れたのが素直に楽しかったですね。

すべてが順風満帆だったのでしょうか?

もとが京都という関西のお店なので「とにかくお客様と会話しろ」って言われまして。でもいきなりは喋れなくて「どうしよう?そうだ、修行に行こう」と。できなければ修行に行くってすごい安易な考えですけど。上ル下ルが終わった週末の夜12時過ぎに青山のバーに行った訳ですよ。

そのオーナーさんも輪を掛けたような関西の方で「5秒黙るな」みたいな。「お客様からお会計です」って言うと「(もう帰るのは)お前がつまらないからじゃぁボケ!」ってカウンターの下で蹴られて「俺、何やってんだろう」って思いましたね。

それを克服する事はできましたか?

2人組の女性客がいらした時に1個だけ喋れるネタといいますか、恋愛トークをすれば取りあえず女性のお客様とは喋れる、みたいな当時すごい間違った認識を持ってまして。お一人様が帰られて、お一人様が残ったんですが、もう公開説教が始まって「あんたの接客は何だ!全然面白くない」。僕の唯一の恋愛トークが奪われて、お客様も怒ってるし、どうしよう?と頭の中のルーレットを回転させて…、本当に2、3秒だと思うんですけどパッと止まったのが「俺、この人の話聞いてねぇ」だったんですよ。

そこからひたすら「はい、はい」って怒られながらも一生懸命に聞いて。そしたら朝方帰る時に「どうしたの?さっきまでの接客と全然違うよ。また来るね」って。それが今でも自分のすごい糧になっていて「とにかく人の話を聞こう」と。聞く事を覚えたらお客様とのコミュニケーションがしやすくなったんですよね。

バーでの修行以外に何かされた事はありますか?

これから実家に帰るのに2店舗しか見てないは自分の経験として良くないなと。派遣会社に登録して、原宿の店の料理長だってのは伏せてですよ。何もできません、みたいな感じで。連休とかで3日あれば3店舗を見られる。お店で全然やり方違うんだな、自分の店ならできるけど人の店だと全然できないとか。ウマの合う店もあれば、何か嫌なお店もあるとか。そうして少しでも吸収しようとしてましたね。

いろんな事を良くしよう、自分ができる事はないのか?と常に考えていらっしゃる。

「できない」ってちょっと嫌だな、というのがあります。それは今の料理にもつながるんですけど何でもやってみたくなる。僕の考えですけれど、お寿司屋さんは陸上なら100m走だと思うんですよね。メインというか華やかで。和食は10種競技で何でもやらなきゃダメみたいな。でも寿司職人じゃないから寿司はいらない、天ぷら職人がやった方がいいから天ぷらは揚げないとうい人も結構多い。その考えは間違ってないけれど、僕は何でもやりたくなちゃうんですよね。 「下手くそなの嫌だな」って思っちゃうタイプで。ドリンクも勉強してみたい、サービスも勉強してみたい、こんなお店も見てみたい。けれど、そういうのはずっとあるんと思うんです。

お前がやればいいじゃん

そして、また新発田に戻られましたね。

30歳に戻るという親との約束でしたから。戻りたくなかったですよね。一番楽しくていい時でしたから。料理長にもなって、やっと自分の名前が売れるぞっていう感じで。

東京と新発田で一番違ったのは、新発田だと「北辰館の廣岡雅志。北辰館のせがれ」ですけれど東京は「ヒロオカマサシ」を見てくれる。うまくいっても悪くてもヒロオカマサシになるんですけれど、その感覚がすごい楽で。「東京でヒロオカマサシをこれからもっと広めていくぞ!上がるぞ!」って思ってた時だったんで。「え〜」と思いましたけれど。十分いろいろ見させていただいて。最低限のことはやれたかなって自信も付いたので帰りましたね。

戻ってからはどう過ごされましたか?

実家を何も知らないのはまずいなと思って、まず実家に入りまして。ただ東京時代にやった事を自分でやりたいという思いがありましたね。東京はすべてが違ったと言いましたけど、新発田でまたすべてが違う環境になって、人に会えば「いつもお父様にはお世話になってます」と挨拶をされて。今では「こちらこそお世話になってます」と素直に言えますけど、当時は「クソ!」と思いながらすごい嫌だったんですよ。東京のヒロオカマサシが新発田に帰ってきたら、また父のせがれになって。

2年ぐらいで「店やりたい」って爆発しまして。それで「手紙」がスタートする。父に話した時に「お前が動かないから悪いんでしょ。お前がやればいいじゃん」と血相を変える訳でもなく、すごい冷静に言われて。でもこっちはいきり立ってますから「じゃぁ、やってやるよ!」って。けれど、どうしていいのかさっぱり分からず。(笑)後にある社長さんに「自分で始めたかもしれないけど、ちゃんと社長が根回してくれたんだよ」って聞きまして。手のひらで転がされていたんですよね…。

「手紙」ではどういう料理を出したいと考えました?

会席料理を肩肘張らずに日常的に楽しむ和食ですね。星さんの丁寧できれいでおいしい料理と枝國さんの「日常的に和食を楽しむ」というくずしたものを表現したいって明確にありました。迷いは一切なかったですね。おふたりから教えていただいたものをそのままやりたいという思いでした。

オープン当初のお客様の反応は?

はい、これがまったくでした。やっぱり勘違いして東京から帰って来てるんですよね、僕だけじゃないと思いますけれど。人気店にいて、カリスマ料理人の後ろにいて、東京でこんだけウケてるから田舎に帰ればウケるに決まってる、みたいな。お笑いで言ったら東京ではあんなにウケてくれたのに新発田だと全然笑ってくれない。何が違うんだ、俺あんなに輝いてたのに。(笑)

お金もすぐ厳しい状況になりました。恥ずかしい話、何度もダメだと。でも救われたのはそのタイミングでスタッフが辞めていった。そうすると人事費が浮くじゃないですか。僕が2人分、3人分がんばればって、がんばる量が増えてしんどかったですけれど。すごくシビアですよね、経営になると。

ひとつやったといえば皆さんがよく見る雑誌の取材がありまして、新潟の和食の特集で。「自分の料理で表紙を取ってやろう」と明らかに表紙狙いの料理を作ったら本当になって。それから新潟市のお客様にも広まって俗に言う軌道に乗ったっていうんでしょうか。だから何もかっこいい事はしてないんです。

根本的な考えは変わっていませんか?

もう貫くだけですね。新潟に帰る時に枝國さんから「お客様の半歩先でちょうどええんやからな。一歩先行ったらあかんで。今お前が東京でやってる事って多分新発田の一歩以上先行ってるからウケんと思うぞ。俺の料理だってウケへんで」って言われたんですよ。でも僕は勘違いしてるから「大丈夫ですよ、俺はやってやりますよ」みたいな感じになってる。で、本当にウケない…。手紙を始めて最初は軌道に乗らなくて、その言葉を思いしらされましたね。

「手紙」から「ついしん手紙」に変わった理由は何でしょう?

手紙はコース1本でしたけれど「コースじゃなければ廣岡の料理が食べれるのに、もうちょっと安ければいいのに」って言われて。窓口を広げたい思いで「ついしん手紙」を始めて。ランチもやって、価格帯も幅を作って、一人でも多くのお客様に僕の料理を食べていただける枠組みにしました。家庭の中で日本料理とか和食とかがどんどん無くなっていますよね。家庭で難しいのならリーズナブルで行きやすいお店があってもいいんじゃないかって。

ただ料理のクオリティまでは下げない。逆に料理のクオリティをひたすら上げていくって目指してるところです。何万円とか払わなくても、若い子が自分のバイト代でちゃんとした日本料理を食べれるお店。これからもついしん手紙のコンセプトとしてずっとあると思います。面倒くさいんですよ、日本料理って。でも何とか踏ん張ってやっていきたいですね。

お客様に愛される事を覚えろ

今後の目標は何でしょう?

目標や夢は特にないんですよ。料理人としてもまだまだですし。今まで以上においしいものを作りたい、料理に向き合いたいって思いも強いですし。スタッフたちが、自分の夢を叶えるための力量を付けさせてあげたいな、ってくらいで。新しい事というよりは、ついしん手紙と北辰館に足を着けてしっかりやっていく事に重きを置いてますね。

料理業界の若い人へメッセージをお願いします。

大変な仕事ですしね。人様が仕事をしてる時に僕たちが準備して、人様が休んだ時に僕たちが仕事をするっていう絶対的なものがあるので思いを強く持たないと挫けちゃう。でもそれを挫けさせないためには、やっぱりその上の、僕たちが辞めさせないために何ができるのか。若い子というより、僕たちの責任や仕事だと思うんですよ。

枝國さんから「お客様に愛される事を覚えろ。そのためにどうするか考えろ」って言われて。普通なら「愛しなさい」って逆だと思うんですけれど。そのために僕はまず「自分ってこういう人間ですよ、どうですかね?」って一生懸命に理解してもらう。多分若い子たちは「私を分かってくれない」と思ってる。でもそれは当たり前で、分かってもらうには素直に行動してみるとか、言ってみるとか。お互いに理解して尊重し合えると職場環境もおのずと向上するんじゃないかな。

「ついしん手紙」ではどうされていますか?

例えば、うちはネイルをオーケーにしてるんですよ。飲食店で基本けしからんと思うんですが「私はこういうのが好きなんだ、自分なんだ」とやれば「この子はそういう子ね。かわいい爪してるわね」ってお客様も理解しやすくなる。もっと怒られると思ったんですが、高齢の女性のお客様でも楽しみにされていて「今月はどんなにしたの?」ってコミュニケーションが生まれて。

それが良い事か悪い事かは分からないですよ。ただ自分を理解してもらう、人を理解するっていう手段の一つで、ネイルで自分に自信が付いて、自分らしく仕事してくれるなら、あとは僕が怒られればいいじゃないですか。少しでも自分らしく仕事をして欲しいので許せる範囲は許して、その代わりやることはしっかりやる。理解してもらうってのは自分がやればいい事で、実はその方がコミュニケーションがとりやすいのかなって思うんですよね。

確かにその方が人との接し方が全然変わってきますね。

けれど社会の中で個性を出すとそこの責任はつきまといますよね。金髪のバッターが三振しまくったら「なんだその金髪!」って怒られる。でも逆にホームランをバンバン打てば「あの金髪かっこいい!」になる。あと、どこの職場でも「あいつはやらない、何で私ばっかり」ってあるじゃないですか。でもサッカーだったらキーパーに「あいつ走らない」って言わないですよね。守るやつ、点取るやつは、同じ能力じゃない。職場でも、あいつは接客苦手だけどめっちゃ掃除してくれる、掃除さぼるけどいつもお客さんが笑顔になって帰られる、とかどんどん個性を出してあげて「あいつはああいうやつだよね」って理解し合って、みんなができない部分を補い合うチームの方が僕は好きですね。

最後に20代、30代の若者へメッセージをお願いいたします。

今の子ってスマホがあれば時間を潰せるじゃないですか。いいと思うんですけれど、やっぱり人と会うのって楽しいよって。人から学ぶ事ってすごい多いですし。今日インタビューをしていただきましたけれど「誰かに言われたんですが」っていろんな人の言葉が出てきた。その人にお会いしてなければ今の自分の言葉は無かったですしね。

僕も正直休み中は寝てんの大好きです。「誰とも会いたくねえなぁ」もしょっちゅう。けれどやっぱり人に会うと救われるんですよね。実際に会わなくてもコミュニケーションがとれる時代ですけど質が違うと思うので、誰かに会いに行っていろんな話しをする時間を設けて。夢とか目的とか大きい事じゃなくていいから「今度こんな洋服着たい」とか、それを着て街を歩いて。ちょっと素敵な自分を人と会って探しに行く感じでいいんじゃないですかね。

がんばって破裂しちゃわないように。背伸びする必要ないんですよ。ダメならダメで「こんな自分なんです」って。それを理解してくれる人がいたらいいじゃないですか。アドバイスしてくれる人や言葉に出会えるかもしれないし、自分の気持ちが晴れるかもしれないし。

今の言葉、若い人だけじゃなくていろんな世代に響きそうですね。

自分も破裂しちゃったことありますし、だから少し余裕を持ちながら生活して。今の若い子は頭がいいですからね、僕の20代に比べて。ただ器用過ぎるきらいがあって「もうダメだ。こっちの道や〜めた」みたいな。そんな器用じゃなくていいのにって思います。

でも、料理をつまんないって思わせたら、きっと僕たちが思わせてしまってる。料理って本来つまんないものじゃないのに。それで諦めさせるのはこっちの責任かなと思います。全部が全部ほんとにうまくはいかないですけどね。僕もまだ、何事もぜんぜん下手くそなままですし(笑)

インタビュー:2022年7月

Information

ついしん手紙「上質な割烹をよりカジュアルに」をコンセプトとした、くずし割烹店。昼のランチや夜のコースなど、様々な客層が本格的な日本料理を楽しめるメニューを提供。店名の由来は「料理も手紙のように、想いを込めて大切な人に届ける。」という思いから。

〒957-0053 新潟県新発田市中央町3-5-7
TEL: 0254-21-2950
URL: http://tegami-shibata.jp/

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