藤田金屬株式会社2021.09.01
鉄のエキスパートとして
誇りを受け継ぎ、未来へ。
新潟、東北、関東、信州、北陸の各エリアにて、鉄をはじめとする各種鋼材の流通・販売等を営む老舗企業、藤田金屬株式会社。130年の長きにわたる歴史と、その中で培われてきた精神性について、若き新代表の今井社長に伺った。絶えず変化する時勢において、事業を存続させる手がかりを探る。
今井 幹太(いまい もとひろ)1991年生まれ。新潟県新潟市出身。青山学院大学経済学部を卒業後、鉄鋼製品等の輸出入を営む伊藤忠丸紅鉄鋼(株)に入社。2018年に家業の藤田金屬株式会社に入社し、同年10月、代表取締役社長に就任。物心つく頃からのサッカーファンで、2002年のW杯日本・韓国大会では、選手団をひと目見ようと宿泊先のホテルへ自転車で駆けつけた。
日々の生活を、その根底から支える仕事
まずは、御社の事業内容を教えてください。
鉄鋼流通事業と呼ぶのが正式ではありますが、普段は「鉄の総合商社」を名乗っております。鉄を鉄鋼メーカーから仕入れて、お客様のご要望に合わせ加工・納入するのがお仕事で、扱う素材や加工の機能ごとに「薄板事業部」「ステンレス・特殊鋼事業部」「建材・厚板事業部」に分かれます。
鉄は、重くて運搬が大変な割には単価が安いため、長距離の輸送に適していないんです。そのため、私たちは東日本の各地域に21の拠点を構え、地域ごとの需要に根ざした商売を行っています。
主要事業の「コイルセンターサービス」とは?
コイルとは、薄く引き伸ばした巨大な鉄をロール状に丸めたもの。これを鉄鋼メーカーから仕入れ、お客様が要望するサイズの鉄板に加工してお届けするサービスです。薄板事業部、ステンレス・特殊鋼事業部がこれに当たりますね。鉄製の薄板は、主に自動車のボディや家電などの材料に。一方でステンレスの薄板は、身近なところだと燕三条地域のモノづくり企業に納めることが多いです。
それらに対し、建材・厚板事業部はコイルではなく、巨大な板状の鉄を取り扱います。こちらの用途は主に、建築用の鉄骨といった、より大型の部材。近年は厚板の溶断だけでなく、穴空けや溶接といった2次的・3次的な加工も承れるよう、体制を整えております。
「鉄鋼流通」というと、どこか日常とは縁遠い印象がありましたが、そこから生み出される製品群は、日々の暮らしに欠かせないものばかりですね。
そう思っていただけると嬉しいですね。弊社で加工した鉄は、まだ素材の域を出ないので「これが我が社の製品です」と世間にアピールできる性質のものではなく、一般の方からは何をやっているのかイメージが湧きづらい会社かと思いますが、実は皆さんの生活の基盤を陰ながら支えるお仕事をしています。
令和4年に創業130周年を迎える藤田金屬。時代の変化に長く適応してきた中で、培われたものは何ですか?
実は、弊社はこれまでに何度か転業をしておりまして。そのせいかは分かりませんが、130年の歴史全てを貫くような、大きな経営理念といったものは掲げていないんです。なので、比較的最近の話になってしまうんですけれども、中期経営計画の設定に伴い、15年程前から継続して「動く変る」という言葉を、スローガンとして打ち出しております。
15年前というと、先代社長が現役だった頃ですね。
そうですね。私の父に当たる先代・今井幹文が掲げた「お客様からのご要望はもちろん、それらを取り巻く社会状況なども刻一刻と変化する中で、私たちは柔軟に会社の体制であったり、認識であったりを改めていく必要がある」というメッセージが始まりです。
こういったものは、やはり掲げてすぐに馴染むというものではなくて……。この15年間、各拠点の看板に印字したり、名刺に記載したり、社員が大勢集まる場では、繰り返し繰り返し、社長自身の言葉で伝えたり、そうした取り組みを経て、徐々に徐々に、ひとり一人の意識に浸透してきているのかなと感じるところです。
歴史に刻まれた「動く変る」の精神
先程、過去に転業の歴史があると伺いましたが、改めて御社の沿革、また現在の事業のルーツについてお聞かせください。
はい。弊社の起源は明治25年。初代・藤田甚蔵が、燕町(新潟県燕市)でヤスリの製造業を興したのが始まりとされています。大正〜昭和の動乱期にかけて事業を軌道に乗せ、昭和10年代には、80人近くの従業員を迎えるまでに成長しました。
そうした中で、最大のターニングポイントとなったのが昭和20年。三代目の藤田文雄が社長になった年です。終戦を迎え、昭和天皇の玉音放送を聞いた三代目は、「海軍に納入したヤスリの代金が回収できなくなるのでは……」と、その日のうちに夜行列車へ飛び乗り、急ぎ東京へ向かったのだとか。
案の定「支払いはできない」と言われてしまった三代目ですが、その代わりとして、不要になった大量の鉄スクラップを譲ってもらえることになったらしく、これをきっかけに、鉄の卸問屋という新たな事業が成立。今日の藤田金屬が携わっている、鉄鋼流通業へと続いていきます。
鉄という商材を軸に、製造から流通の側へと転業を果たしたのですね。
そうなりますね。鉄は、経済成長の度合いやその国・地域の人口によって使用量がおおよそ決まるものでして。戦後〜高度経済成長期の日本は、まさに鉄の需要がぐんぐんと高まっていった絶好の商機。そのタイミングで「これからは問屋だ」と舵を切った三代目の着眼点には、非常に鋭いものがあったのかなと思います。
それでは、先代であるお父様の背中については、どう見ていましたか?
それがですね……。うちの父は、とにかく家庭に仕事を一切持ち込まないタイプでして。正直なところ、物心つくまで自分の父親が何をしている人物なのか、まったくと言っていいほど知らなかったんです。ある程度の歳になって、どうやら「どこかの会社の社長」をやっているらしいぞ、と薄々気づいたくらいで。
この社屋にも、子どもの頃はめったに立ち入る機会がありませんでしたし、それどころか、大学生になってから「職場見学させてくれないか」と打診しても「駄目だ」と断られるぐらい、とにかく会社と家庭を切り離す人でした。
それでも「君のお父さんはすごい人だぞ」という、父にまつわる漠然とした噂だけはたびたび耳にしていたもので……。私の中で「周りの人にこうまで言われるうちの親父は、一体どんな仕事をしているんだろう」と、強い興味が育っていたんです。
もしかすると先代は、社長ご自身が自発的に家業への関心を持ってくれるよう、あえてそうした態度を取っていたのでしょうか?
そうかもしれません。小さい頃から父は「自分のやりたいことをやれ」と、まるでレールを敷いてくる素振りがありませんでした。ある一定のボーダーラインさえ越えていれば、どの高校で何を学ぼうと、将来何をしようと口出ししない。そんな風に、かなり自由な選択肢を与えられていたはずなんですが……。結局は、父の狙いにまんまと引っかかっていたのかもしれませんね(笑)。
そうした流れで、大学を卒業する際「就職するか、家業へ入る前提で商社にお世話になるか、どちらかを選べ」と父に告げられ、改めていろいろな対話をした上で「私は将来、藤田金屬を継ぎますよ」と意志を表明しました。その後は4年間、都内の商社に身を寄せて、いろいろと修行をさせていただくことになります。
新しい変化を受け入れていく力
商社での修行を経て、藤田金屬に入社した当時のお話をお聞かせください。
新潟へと戻ることになったのは、2018年の3月頃、先代に病気が見つかったためです。急遽ではありましたが、お世話になっていた商社を退職し、同じく修行に出ていた弟と一緒に、藤田金屬に入社しました。
修行時代は、主に貿易に関わる部署におりまして。日本の鉄を海外に輸出したりですとか、そういった仕事に携わることが多かったんです。一方の藤田金屬は、国内の仕事に特化した商売形態ですから、勝手が少々違いまして……。しばらくはそのギャップに苦労しましたね。とはいえ、鉄を扱う商売には違いありませんでしたし、業界の風習や空気感みたいなものも、事前に肌で感じられました。有意義な4年間を過ごせたと思います。
ただ、それでも「先代のもとで長く勤めてきたベテランの皆さんが、たかだか26歳・27歳の若造ふたりを受け入れてくれるかどうか」という点については、正直かなり不安でしたね……。いざ戻ってみると、役員・社員一同すんなりと迎え入れ、快くサポートしてくれたので、結果的には杞憂だったのですが。
大きな変化を受け入れ、適応する姿勢……。まさしく、先代が示したスローガン「動く変る」を体現していますね。
このとき、先代と役員らとの間ではすでに、私たち兄弟を次代の経営者として育てるという基本方針が共有されていました。藤田金屬という組織の面々が、これまで互いに築き上げてきた信頼関係の賜物なのかなと。父にも、長く父を支えてきてくれた皆さんにも、ただただ感謝しつつ、日々精一杯働いています。
そんな「藤田金屬だからこそ」と言うべき、社の特色ある取り組みを教えてください。
うーん、何ですかね……。このやり方が良いか悪いかは別問題として、ひとつ「藤田金屬らしい」と言えそうなのは、中期経営計画の作り方でしょうか。先代が初めて「動く変る」のスローガンを打ち出した第1期から数えて、今期で第5期目になるんですが、近年はもう、基本的にボトムアップで経営計画を定めているんです。
経営層から頭ごなしに「こういうのやれ」と通達するのではなく、現場の社員たちが日々見ているもの、感じていることを手がかりに「じゃあ、こういうことやりたいよね」と意見を上げてもらい、それに基づいた計画を作る。これについては、よその会社にはなかなか無い発想の仕方ではないかなと自負しています。
現場の事情をきちんと汲み取った内容であれば、それだけ現場への浸透も早まりますし、意識すべき点の共有が上手くいくほど、仕事もやりやすくなります。人間誰しも、他人から言われたことを嫌々やるより、自力で発想したことを実践する方が、やりがいを感じられるものですしね。
そうした運営が可能なのは、社員の皆さんひとり一人が、自分の意思と考えのもとに行動しようとしているからだと言えそうですね。
そうですね。先代らは単に、組織を大きくしたとか、数字をたくさん上げたというような「結果」だけではなく、後世にきちんと「人」を残してくれました。進むべき道や、取るべき態度を自ら示して、人材教育をして「人を残す」こと。これはひとつ、経営者のあり方として見習うべきだなと実感しています。
自ら環境を変え、価値観を更新する
大学〜商社時代と、20代の大半を東京で過ごされた今井社長。当時の「東京から見た地元・新潟」の印象はいかがでしたか?
上京したての頃は、おそらく多くの若い方と同じく、私もまた「東京」という街に強い憧れを抱いておりました。でも次第に、東京が魅力的なのは「そこが東京だから」ではなく、単に「自身の行動範囲が拡がっている最中だから」だということが分かってきたんです。
私は高校進学と同時に新潟を離れたため、せいぜい「15歳の目線で見た新潟」のことしか知りませんでした。それと比較して「20歳の目線で見た東京」の方が輝いているのは当然のことで。実際、20代の終わりに新潟に戻り、改めて地元で過ごしてみると、見える世界はまるで違いました。いろんな場所に行き、いろんな方と会うようになると「新潟も捨てたもんじゃないぞ」と実感します。
ですので、地方出身の若い方々には、どこか別の街である程度過ごしてみた後、一度故郷に戻ってみてほしいですね。本当はすごく面白い場所があったんだ、すごく頑張っている人たちがいたんだって、改めて気づけるはずなので。
新潟へと戻ってきた今、今井社長が見据える藤田金屬の未来について展望をお聞かせください。
先程も申し上げたように、鉄というものの需要は人口の増減に強く影響されます。日本の人口がこれから減少していくのに合わせて、鉄鋼流通業界にも再編の波が必ず押し寄せます。M&Aや加工設備の協同更新のような取り組みに、主体的なアプローチをしていきたいです。
また、業界内だけでなく「新潟という地域そのもの」をもっと良くしたいという気持ちも、近年すごく強まっております。より豊かで、より活気ある、住んでよし、訪れてよしみたいな、魅力ある地域にしたい……。そうした志を持つ若い世代って、今確実に増えてきていると思うので、私たちも地元密着型の企業として、少しでも、その一助になれればいいなと考えているところです。
最後に、若い世代の読者へ向けてメッセージをお願いします。
近頃って、こう……「転職ありき」じゃないですか。これはイチ企業の代表として、あまり言うべきことではないかもしれませんが、それでも本心で申し上げると「学生のうちに『やりたいこと』なんて、見つからなくて当然」だと思うんです。ひとまず社会に飛び込んでみて、そこで初めて気づくことってたくさんありますから。だから、一度や二度の「やり直し」をためらわないでほしいなと。
私も含め、新潟県民って何かと他人の目を気にしがちですが、エネルギーがある若いうちに、いろんなことを経験しておくと、物事に対する見識も増えて、選択肢も拡がるはず。仕事だ、勉強だと道を狭めずに、気になったことは何でも試してみたらいいんじゃないかなと思っています。
インタビュー:2021年7月
Information
藤田金屬株式会社ステンレス・特殊鋼、薄板、厚板、建設建材など、さまざまな鋼材の加工・販売・レンタルを網羅し、日々の生活基盤を強固に支える「鉄の総合商社」。フレキシブルな進化発展をモットーとし、あらゆるニーズに対して「最適」な価値の創出を追求している。
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